西域探検と調査に力を入れたのは日本が最初ではないが、反応は速く、すさまじいほどである。日本人は中国を知る際、民間や政府などの様々な手段を使って西域に進入し、無数の中国の宝を盗んだ。中でも悪名高いのは、僧侶の大谷光瑞が主宰した中央アジア探検隊である。「老人報」が5月29日に伝えた。
1902年から1914年にかけて、大谷探検隊は3回にわたって中国北西部の奥地に入り、いわゆる探検、考古活動を行った。探検隊は、多くの遺跡、墓、さらには死体まで掘り起こせる場所は隅から隅まで掘り起こし、国内に持ち帰ろうとした。
橘瑞超を派遣して「色仕掛け」を計画
日露戦争後の1908年、大谷光瑞は第2次探検隊を送り、後に有名探検家となる橘瑞超がこれに参加した。
橘瑞超は当時弱冠18歳で、彼と24歳の野村栄三郎が探検隊を引っぱった。若い2人に引っぱらせた点から、大谷光瑞には並大抵ならぬ冒険と賭博の精神があったことがわかる。橘瑞超を起用したのは、彼が絶対的な忠誠心を持ち、その上、オーレル・スタインやスヴェン・ヘディンなどの探検家と同様に言語力に優れ、人柄が良く落ち着いていたためである。これらは探検家に必要な要素である。
もう一つ言われているのが、「色仕掛け」を使うためである。橘瑞超は男だが、上品で見た目は女の子のようで、緊急時に「女の子」になりすまして「美貌」で中国人に対応することができる。探検中は強盗に遭う可能性が高いが、男は女性に弱く、どんなに乱暴な強盗でもか弱い「美女」を見れば心が動くに違いない。しかし、行く道が険しかったため強盗に遭うことはなく、大谷光瑞は「色仕掛け」を最後まで実行しなかった。
この探検で、彼らは西域から多くの中国の文化財を盗んだ。当時、彼らは13頭の家畜を使ってこれらの文化財を運び出した。中国人に見つかって面倒になることを恐れたのか、それとも交通の便からかわからないが、日本人は中国の国境を通らず、インド経由でこれらの物を日本に持ち帰った。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2013年6月4日