日本人戦犯・富永順太郎の1955年2月から12月の供述書によると、富永は1895年に日本の福島県で生まれた。1926年から1931年1月までハルビン日本内務事務官石川銀三の事務所で勤務した。1939年6月以降は、華北交通株式会社の課長、資業局次長、総裁室交通地誌室主事を務めた。
富永が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
「私は一九三八年六月に資業局第二交通課長に転任し」、「路警の名の下に旅客に対しては勿論一般沿線住民に対しても数限りない不法行為が行はれ、後来路警は完く人民の爪弾きを受けていた」
1941年12月以降は、「私は在京華北交通株式会社本社警務局所属中央特務班班長を兼務していましたので」、「第三国人特に交戦国たる英米仏国僑民に対する取締監視を厳重にしました」。「スパイ嫌疑濃厚なものは逮捕訊問し其内之四名は前記日高機関に送附しました。その内一名は白俄人、他は中国人でありました」
1943年10月には、,「日本人技術員を謀者として西北地域に潜入させ交通情報の蒐集を行ひました」
1943年には、「米式重爆B29用新基地を発見し日本軍に報告す」
1944年には、「京漢線南段鉄道復旧工事計画を作製して、日本軍の河南侵略作戦に協力す」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月14日