原弘志の1954年6月の供述書によると、原は1895年岡山県生まれ。1933年3月から中国東北部で中国侵略戦争に参加し、偽満州国鉄道警護総隊総監部警備科長、鉄路警護軍少将参謀長などを歴任し、1945年9月に捕虜となった。
重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1937年5月19日、「部下ノ中隊ニ命ジテ城内ノ中国人民ノ家ニ対シ検問検索ヲ実施セシメタ際、部下ノ一名ハ中国人民(子供、男)ヲ射撃シテ頭部ニ重傷サセマシタ。被害者ハ頭部ノ傷デアルカラ既ニ死亡シタコトト推定シマス」。
1943年7月以後、西南地区防衛委員会委員として、熱河地区粛正工作のための会議に出席し、各鎮圧機関に八路軍及び中国平和人民に対する討伐、逮捕、鎮圧を行わせた。9月、10月の2度の「大討伐」だけで、熱河全省内で抗日工作人員及び抗日の中国人民約1000人を逮捕し、うち約500人を錦州高等検察庁承徳分庁に送致した。「中国平和人民ニ対スル拷問、拷問致死、殺害、致傷、其他放火、破壊等ニヨル殺害ハ甚大デアリマシタ」。(編集NA)
「人民網日本語版」2014年7月29日