国家公文書局はこのほど、日本人中国侵略戦犯・野崎茂作の供述書を公式ウェブサイトで公開した。これによると野崎は、1931年から1935年まで数十人の抗日戦士を逮捕・銃殺した。
野崎の1954年8月の供述書によると、野崎は1898年9月に日本の静岡県で生まれた。1931年から中国東北部で中国侵略戦争に参加し、奉天日本憲兵隊兵工廠分隊曹長や懐徳県警務科科長などの職を務めた。1946年1月15日に逮捕された。
野崎が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1931年10月から12月までは、部下を率いて3回にわたって「十五名ノ張学良愛国軍兵士ヲ検挙シ部下井上軍曹ニ命ジ拷問取調ヲ行ハシメ」、12月25日に「拳銃ヲ以テ銃殺サセマシタ」
1932年8月には、部下を率いて奉天で張海鵬の部下の軍士5人を拷問した後、拳銃で銃殺した。
1932年12月には、憲兵を率いて荘河県で鄧鉄梅抗日武装兵士18人を逮捕・拷問し、「荘河県城北方五百米点ノ荘河ノ砂原ニ於テ部下憲兵十五名ヲ現場デ指揮命令シテ(中略)計十八名ヲ一列横隊ニ並ベテ騎兵銃ヲ以テ銃殺」した。
1932年12月には、憲兵を率いて大孤山西方の村落で抗日人員と共産党員5人を逮捕し、拷問の後、銃殺した。
1933年2月、新京憲兵隊吉林憲兵分隊班長と憲兵曹長に在任中、部下を率いて劉東波の部下5人を吉林市外西南2kmの地点に連れて行き、銃殺した。
1935年6月、奉天日本憲兵隊附属地分隊での在任中には、密山県で李杜軍の抗日戦士12人を検挙したことを報告し、上司の命令を受けてすべてを銃殺した。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年8月13日