資料写真:宮川英男
全国政治協商会議の何建明委員は、今年の全国両会(全国人民代表大会、全国政治協商会議)の会期中に、盧溝橋の「抗戦記念館」の付近に国民が見学できる「抗戦国際英雄記念館」を建設するよう提案した。これには、中国の戦場で抗戦に加わった国際的な英雄の事績、および偉大なる国際主義精神を中国人に永遠に記憶させる狙いがある。
資料写真:仕事中の「反戦同盟会」
日本人の宮川英男(1918−1945年)の最終学歴は中学卒業で、1931年に入隊し、中国を侵略する日本軍の一員になった。1941年7月に八路軍の捕虜になり、教育を受け共産党に加わった。日本共産党の岡野進(野坂参三)が率いる駐延安「反戦同盟会」は1943年、宮川を山東省長清県に派遣した。宮川は、「津浦鉄道対日軍工作隊」の主要メンバーだった。彼の任務は、日本軍に関する宣伝資料を作り、日本軍を瓦解させることだった。
宮川が津浦鉄道の沿線で、敵に政治的な攻勢をかけていた際に、日本軍が押し寄せ非常に危険な状況となった。宮川は直ちに移動するよう促されたが、職務に対する強い責任感から離れようとせず、「怖くない、私には手がある」と述べ、任務に成功した。宮川は質素に暮らし、服が破れれば自分で針を手にした。上司から送られた生活補助は常に人々の食費にし、さらに家主を手伝い庭掃除をした。人々の物を返し、壊れていた場合はその価格に基づき弁償した。宮川は同志と兄弟のように接した。同志の李洛夫が夜の行軍中に風邪で発熱すると、宮川は山を越え村に入った。しかし薬が見つからなかったので、宮川は民間療法により熱を下げてやった。宮川は、政治的に間違いを犯さなかった。宮川は共に働く日本の戦友が、家主の娘をからかったことに憤り、直ちに厳しく批判した。
宮川の活躍により、日本軍が恐慌をきたした。工作隊は1945年6月9日の夜、万徳西官荘で任務遂行中に日本軍に発見され、厳重に包囲された。宮川は冷静沈着に文書を埋めてから戦闘に加わったが、敵が多すぎ包囲を突破することができなかった。宮川は捕虜にならないため、銃で自殺した。わずか27歳だった。
宮川が犠牲になると、日本軍は彼の死体を奪った。「津浦鉄道対日軍工作隊」の同志は区の武装工作隊から支援を受け、大雨のなか敵の封鎖を突破し、宮川の遺体を取り戻し、根拠地の孫家土村付近に埋葬した。宮川の遺骨は1980年の清明節の前夜、石麟山革命烈士公墓に移され、烈士の墓碑が建てられた。遺骨は2006年、日本に戻された。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年7月9日