宮崎慶文は日本人に無料で中国語を教えている
70歳になる宮崎慶文は毎週土曜日になると、東京都台東区にある「中国残留孤児の家」の地下1階の教室にやって来て、無料で中国語を教えている。自分の力を通じて、できるだけ多くの日本人が中国を理解する窓を手に入れるのを助け、日中両国の民衆の相互理解を高めたいとの思いからだ。
ほうろうの茶碗にこめられた養父母の愛
「私は日本国籍を持った『中国人』」。中国語のきれいな標準語を操る宮崎は、本紙記者にそんな風に自己紹介した。1945年11月10日、中国遼寧省大連市に生まれた。妻と二人の子どもを連れて日本の東京に戻ったのは1997年2月5日のことだった。中国に半世紀あまり暮らした宮崎は、数千人の日本の中国侵略戦争孤児の一人である。
1947年初め、1歳余りの宮崎は父と兄、姉と一所に、船に乗って日本に帰るはずだった。だが苦しい生活の下、宮崎の父は幼い息子を生き延びさせるため、中国家庭に宮崎の扶養を託することにした。日本語のわかる男の紹介を通じて、宮崎は大連の閻子余夫妻に引き取られることとなった。
幼い宮崎は厳しい栄養不良の状態にあり、1歳を過ぎていたがまだ歩けなかった。当時は物資が極度に不足し、特に米の欠乏は甚だしかった。普通の庶民にとっては、お腹いっぱい食べられるだけでありがたい時代だった。生活の豊かでなかった閻夫妻だったが、宮崎の身体をできるだけ早く強くするため、高い金を払って何とか米を手に入れ、宮崎のためにいつも茶碗1杯の米を鍋で蒸してくれた。「養父母は私に米を作るのに、ほうろうの茶碗を2つもだめにした。養父母が私にどれだけ良くしてくれたかの証だ」
「養父母は、学歴は高くなかったが、私が高等教育を受けることを望んでいた」と宮崎は語る。「幼い私はとてもわがままで、あまり勉強しなかった。父が私を厳しくしつけてくれたことをとても感謝している。もしも父の厳しいしつけがなければ、私が大学に受かることもなかっただろう」。父の要求の下、宮崎は毎日4時半に起き、学習に励み、1965年に北京広播学院外国語学部インドネシア語専攻に入ることとなった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月7日