「養父の当時の月給は60元しかなかったが、20元を私の生活費に当ててくれた。家は裕福ではなかったが、私の生活費はクラスで中位にはなった」と宮崎は当時を振り返る。1970年、宮崎は大学卒業後、河北に赴いた。河北にいた間、宮崎は毎月の43.5元の給料のうち20元を養父母に仕送りした。
1971年のある日、宮崎は養父母から包みを受け取った。開けてみると、スイスの腕時計だった。腕時計をしたことのなかった宮崎は思わず泣き出した。養父母は宮崎が送った金を使わずに貯め、200元近くをはたいて腕時計を買ってくれたのだった。当時、多くの同級生は腕時計をしていたが、天津や上海の工場で作られたものがほとんどで、高い輸入腕時計をしている人は少なかった。その腕時計はもう動かないが、宮崎は、養父母の愛のこもったその時計をまだ大切に保管している。「養父母の私に対する愛は、平凡な生活の細部に濃縮されている。2つのほうろうの茶碗とスイスの腕時計はその代表だ」と宮崎は語る。
宮崎はその後、西蔵(チベット)に仕事に行くことになった。毎月の給料は80元余りに上がった。宮崎は大連で生活する養父母に20元、北京で生活する妻と子どもに40元送り、自分には20元しか残さなかった。1981年、宮崎は母校に戻って仕事をすることになった。この年、宮崎を深く愛した養母が大連で病気のために亡くなった。宮崎は養父を引き取り、北京で一緒に生活するようになった。1987年、養父が亡くなると、宮崎は養父母を一緒に北京に葬った。その後、宮崎は毎年、養父母の墓参りを続けている。日本に帰ってからもこの習慣は変わっていない。毎年9月、宮崎は北京の養父母の墓を訪れる。「中国の養父母の私への恩は山のように重い」と宮崎は語る。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月7日