中日友好を見守る、人民大学の39本の桜にまつわる物語

中日友好を見守る、人民大学の39本の桜にまつわる物語。 今年は中日国交正常化45周年だ。歴史を振り返ると、両国の友好関係は得難いものだと痛感する。これには中日両国の古い世代の政治家による積極的な努力、それから中日両国の民間の識者による力強い支持があった…

タグ: 中日国交正常化 45周年 桜 留学生

発信時間: 2017-04-17 14:52:19 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

今年は中日国交正常化45周年だ。歴史を振り返ると、両国の友好関係は得難いものだと痛感する。これには中日両国の古い世代の政治家による積極的な努力、それから中日両国の民間の識者による力強い支持があった。そのため中日友好は両国間で広く期待されており、人民大学で起きた次の出来事はそれを最もよく説明していると言えよう。

毎年春、人民大学のキャンパス内の桜が満開になると、筆者は欠かさず観賞に訪れる。それから1980年代に教えたことのある日本人学生、末次茂樹氏を思い出す。人民大学に39本の桜を寄贈したのは、彼だった。この桜には、感動的な逸話がある。

日本による中国侵略期間、末次節雄という名の日本人が、中国東北地区の鉄道部門で勤務していた。彼は日本軍が中国の一般人を殺害するおぞましい罪を目撃し、自分の子供を将来、両国民の交流の架け橋にしようと密かに決心した。彼の息子、末次茂樹氏が1952年に誕生した。茂樹少年は父の言いつけを胸に刻んだ。末次氏は早稲田大学経済学部で学習中、中国と中国人への理解を深めるため、中国語の2年間選択した。末次氏は1980年代前半に中国人民大学で留学し、筆者が担当していた「間違い表現分析」を聴講した。彼は内向きの性格だったが、授業中にはすべての機会を利用し積極的に質問・発言したので、中国語がみるみるうちに伸びていった。彼は1年後、優秀な成績を収め、帰国した。その後さらに北京に派遣され、日本航空北京事務所の代表者に就任し、願い通り中日両国の交流の真の「架け橋」になった。

働き盛りの末次氏は、全身全霊で仕事に励んだ。非常に痛ましく惜しいことに、末次氏は1991年、39歳で不幸にも重病にかかり、英気盛んな時に早世した。末次氏は死の間際、父の節雄氏に自分の願いを口にした。「もう両国民の交流のため貢献できなくなったが、中国で39本の桜を購入し、中国人民大学のキャンパス内に植えて欲しい。39本は私が39歳までしか生きられなかったが、桜の木と毎年満開になる花は、両国民の永遠の友好という私の願いを示す」

これは当時、人民大学留学生事務所の職員が、筆者に教えてくれたことだ。筆者は学校側と節雄氏の面会、さらに植樹式に出席するよう連絡を受けた。

筆者はすぐに帰宅し、末次氏が当時聴講していた「間違い表現分析」の、卒業試験の答案を探した。成績は、98点だった。学校側と節雄氏の面会で、私はこの答案を両手で手渡した。節雄氏も両手で厳かに受け取り、「これは家宝だ」としみじみと語った。

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