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japanese.china.org.cn |22. 12. 2021

希望もたらす中日間の友情 時空超える魯迅『藤野先生』

タグ: 中日
人民中国  |  2021-12-22

 

 

藤野厳九郎が周樹人に贈った肖像写真とその裏面に書かれた言葉

 

仙台の経験で人道主義者に

仙台での経験があったからこそ魯迅はより広い心を持てたのだと私は考えている。民族意識の目覚めにより、彼は揺るぎない愛国者へと成長した。さらに医学の勉強と藤野との出会いにより、彼は人間の素晴らしさと善き人の存在を信じるようになり、これは彼が後に人道主義者、コスモポリタン、国際主義者になるのを間違いなく後押しした。まさにこうした揺るぎない信念により、魯迅は20年余り後、挫折の日々の中で『藤野先生』を執筆し、その末尾に次のように書いたのだと私は推測する。「夜中に疲れて怠けたくなるたび、顔を上げ、明かりの中で彼の黒く痩せた顔をちらりと見る。まるで抑揚のある言葉で話し出そうとしているかのようだ。たちまち良心が戻り、勇気が増す。そこでたばこに火を付け、『正人君子』のやからにひどく憎まれる文章を再び書き続けるのだ」

 

魯迅『藤野先生』の直筆原稿

藤野は魯迅と別れた後、再び会う機会に恵まれることはなかったが、心は終始通じ合っていたに違いない。彼のその後の状況はそれを証明している。『藤野先生』の発表後、魯迅は20年余り別れを惜しんできた恩師の近況を多方面に尋ねた。「私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼は最も私を感激させ、私を励ましてくれた一人である」。藤野は文豪・魯迅が自分のことを書いたと知った後、自身の苦境を考え、魯迅に終始連絡しなかった。36年10月、魯迅の訃報が日本に伝わった。藤野のおいの回想によると、新聞に掲載された魯迅の写真を見て、藤野は頭上に新聞を掲げて何回か拝んだという。魯迅が自分の写真を壁に掛け、作品内に書いただけでなく、何年も自分を捜し、自分か子孫に会いたがっていたことを知り、藤野は深く後悔し、「謹んで周樹人様を憶ふ」と題した一文を雑誌に寄稿した。

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