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japanese.china.org.cn |22. 12. 2021

希望もたらす中日間の友情 時空超える魯迅『藤野先生』

タグ: 中日
人民中国  |  2021-12-22


内山完造も無私の援助

平和を愛し、中国を尊敬し、進歩的な思想を持つ日本の友人160人余りと魯迅は生涯を通じて付き合った。31年、上海に留学した増田渉は魯迅を師と仰いだ。魯迅はかつて藤野が自分に接したように、とりわけこの日本人学生の面倒を見た。増田は次のように回想している。ある時、魯迅が藤野の写真を取り出して彼に見せた。魯迅は「先生が今どんな状況なのか私は知りません。恐らく……ひょっとすると……もう亡くなった? お子さんがいるかどうか知りませんが、お子さんを捜し出せるなら、それでもいいです……」と話した。

上海での人生最後の9年間で、魯迅は生涯信頼した友人の内山完造と知り合った。内山書店を拠点に、魯迅は晩年の多くの計画を達成し、無数の感動的な物語を残した。この間、中国は国内的にも国際的にも最も闘争が激しい時期を迎え、魯迅もその思想が最終的に形成され、進歩・正義・平和・人民の側に揺るぎなく立ち、その闘いと吶喊の人生を全うした。激動の時代を前に、彼は「心事浩茫として広宇に連なり、声無き処に於いて驚雷を聴く」と詠んだ。日本軍国主義の中国侵略の拡大を前に、彼は一方では揺るぎなく糾弾し、もう一方では軍国主義分子と日本の民衆を区別し、「日本と中国の民衆はもともと兄弟だ」と信じた。命の終わりを前に、彼は「外で進行する夜、無窮の遠方、無数の人々、全て私とつながっている」と記し、人類を気に掛ける気持ちの大きさを示した。この過程で内山が与えた援助は非常に多く、また無私のものだった。

魯迅の死後、内山は引き続き奔走し、魯迅作品の普及を推し進めた。終戦で帰国した後には日中友好協会初代理事長を務め、民間友好の推進に力を尽くした。

内山は戦後も魯迅の家族や藤野に関わり続けた。56年、魯迅の妻・許広平が原水爆禁止世界大会出席のために訪日した。彼女はもともとこの機会に福井県を訪問し、藤野の墓参りに行く予定だったが、連日の活動のために過労となり、やむなく内山に墓参りを託した。内山はこれに応えて墓参りし、藤野の墓の前で許広平の手紙を朗読した。「劫波を度り尽くして兄弟在り、相逢いて一笑すれば恩仇泯ばん」という情景を目にできなかった魯迅と、「中国は日本に文化を教えてくれた先生だ」といつも心にとどめていた藤野の霊にとって、これは非常に大きな慰めになったはずだ。

 

新時代にも交流途絶えず

民間の力をよりどころとして、60年には仙台市に「魯迅の碑」が、64年には福井市に「惜別の碑」が建てられた。

民間と政府の二重の努力を頼りに、また「以民促官(民をもって官を促す)」によって、両国は72年、ついに国交正常化を実現し、指導者が手を握り合った。

魯迅の家族と子孫は、藤野を語り継ぎ、その子孫と付き合うことを忘れなかった。許広平はもちろんのこと、魯迅の長男の周海嬰もそれに大いに力を入れた。さらに、孫の周令飛さんはいまや魯迅文化基金を運営し、その事業を受け継いでいる。

80年には藤野の出身地・福井県芦原町(現あわら市)に、周海嬰の揮毫による「藤野厳九郎碑」が建てられた。この縁により、芦原町と魯迅の故郷・浙江省紹興が友好都市になった。魯迅と藤野の友情はこれらのルートと形で伝わり続け、美談になった。

2009年には、魯迅が『藤野先生』を執筆した廈門大学で、周令飛さんと藤野の孫の幸弥さんもしっかりと手を握り合った。

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