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japanese.china.org.cn |22. 12. 2021

希望もたらす中日間の友情 時空超える魯迅『藤野先生』

タグ: 中日
人民中国  |  2021-12-22

 

藤野厳九郎が書いた「謹んで周樹人様を憶ふ」

藤野は中国人留学生の周樹人を大事にした理由をおおむね次のように説明している。「日清戦争から相当の年数が過ぎていたが、まだ多くの日本人が中国人を『チャンチャン坊主』とののしり、悪口を言っていた。仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の同級生にも周樹人を白眼視してのけ者にする者がいた。自分は少年時代に漢文を勉強したことがあり、中国の先賢を尊敬しているため、中国から来た人を大切にしようとした。これが周樹人に親切だ、ありがたいというように考えられたのだろう」

 

不幸な歴史の中で友好の種

藤野の正義感は戦中の彼の態度に反映されている。37年に七七事変(盧溝橋事件)が勃発し、日本軍は全面的に中国を侵略した。軍需品の薬品購入が激増したため、薬品価格は暴騰した。田舎にあった藤野の診療所には多くの備蓄薬があった。しかし、彼は高価な買い取りを望む薬品業者を前に、それらの薬は地元の村民らの需要を満たすために保管していると言い張り、少しも売らなかった。彼は子どもたちに「覚えておくんだ、中国は日本に文化を教えてくれた先生だ」と話した。

藤野はこのように力の及ぶ限りのやり方で不当な中国侵略戦争をボイコットした。しかし、彼は自分の祖国が彼の尊敬する国と握手する日までは生きられなかった。藤野の長男恒弥は従軍を余儀なくされ、45年1月に広島で病死した。当時71歳の藤野は息子を失った悲しみをこらえ、診療所に戻って元の仕事で生活を維持した。終戦4日前の8月11日、彼は過労による病気で不幸にも世を去った。

魯迅は全面的な抗日戦争の勃発前年に急逝した。彼は生前、一方では抗戦の情勢を深く気に掛け、もう一方では中日両国にいつか「劫波を度り尽くして兄弟在り、相逢いて一笑すれば恩仇泯ばん」という日が訪れることをなおも固く信じていた。

不幸な歴史を背景としながら、魯迅と藤野の物語は貴重なものに満ちている。民族的偏見を超越し、尊敬と善意の基盤の上に確立されたこうした個人的な友情は、両国の民間友好、ならびに人々の間の信頼と和解の種をまいた。

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