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中国侵略日本軍「満州農業移民入植図」が初展示

中国網日本語版  |  2024-09-18

中国侵略日本軍「満州農業移民入植図」が初展示。

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発信時間:2024-09-18 14:57:06 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

九一八事変(満州事変)勃発93周年に際し、東北烈士記念館は国家1級文化財である、中国侵略日本軍1939年「満州農業移民入植図」を初展示した。文化財のエピソードにより、中国侵略日本軍の中国東北地区における悪行を反映し、歴史をしっかり銘記し国恥を忘れぬよう警鐘を鳴らし、平和を愛し奮進するよう激励する。

東北烈士記念館の職員によると、「満州農業移民入植図」は昭和14年(1939年)に日本の杉田屋印刷所が印刷し、拓務省が出版。100グラムの活版印刷用紙に、赤・黒・水色の3色で印刷。縦76センチ、横54センチで、保存状態は良好。日本帝国主義が中国の東北を侵略した後、計画的かつ組織的に中国東北への大規模移民を行った詳細な状況が記されている。これは日本の中国への侵略及び移民に関する数少ない実物資料であり、日本が中国の東北を長期的に占領しようと目論んだ歴史の物証でもある。

九一八事変後、日本の関東軍は「日本人移民案要綱」を作成し、従来の農業移民を特別な意義の開拓移民に変更した。これはその後の日本政府の中国東北への移民の主線となった。

1933年2月、日本の退役軍人を中心とする武装試験移民が1933年2月、佳木斯永豊鎮に進駐し、東北地区初の移民村「弥栄村」を設立した。武装試験移民として計5回に渡り黒竜江地区で中国の農民の土地を没収・強奪し、中国の一般人を追い払い、現地で「屯匪」と呼ばれた。

中国の東北への永久占拠を実現するため、拓務省は1935年7月に「満州移民の根本方針」をでっちあげ、これを基礎とし「二十カ年百万戸移民送出計画」を制定した。日本の廣田内閣は1936年5月にこれを「7大国策」の一つとして開始した。

「二十カ年百万戸移民送出計画」の骨子はこうだ。1937年より5年を1期とし、20年内に日本から中国の東北に100万戸・500万人を移住させ、東北で「日満不可分離」の「大和民族中心」の人口構造を構築する。

1937年より日本の多くの移民が侵入し、「分村・分郷」移民や「満蒙開拓青少年義勇軍」制度を実施した。

日本の多くの「満蒙開拓青少年義勇軍」が1938年より東北に侵入した。

日本の侵略者は1939年に、世間を欺き「移民団」を「開拓団」に改称した。

1945年まで、計800以上の日本の開拓団が中国の東北に侵入し、東北の人々の150万ヘクタール以上の耕地を強奪した。

黒竜江地区は面積が広く人口密度が低く資源が豊富で、重要な軍事戦略的地位を占め、日本の侵略者による移民の重点になった。当時の黒竜江地区の47県における日本の開拓団の移民は5万2822戸・13万7484人。

これらのいわゆる「開拓団」は荒れ地を開墾するのではなく、「軍刀」を使った強硬な「買付」により、中国の農民の数世代に渡る耕地を略奪した。開拓団の村の周囲には防御陣地が構築され、兵士と武器が配備された。近くの中国人にほしいままに暴力を振るい、略奪した。「戦時は兵士、平時は農民」という顕著な武装侵略の属性を持っていた。1945年に日本が降伏すると、圧倒的多数の開拓民が国に送り返され、「百万移民計画」が瓦解した。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2024年9月18日

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