文=雲南省雲県忙懐中学 羅映清
私の故郷は雲南省南西部の山間部の奥にあり、まさに厳寒で貧しい山間地帯である。このような痩せた土地に生まれた私は、故郷の日進月歩の新しい変化を深く感じている。特に物心がついた頃から、生活に毎年、毎日向上が見られ、食べ物にありつけることから腹いっぱい食べることができることへ、おいしい食べ物が食べられることからテレビを見ることができることへと、暮らしは日一日と楽になった。
1975年頃の故郷について、悲しい記憶が残っている。当時、5歳であった私と村の幼い友たちは、飢えの中で地元のすべての野生の植物を食べた。トウモロコシの実が半ば熟したばかりの頃、私と幼い友たちはこっそりと田畑にもぐりこんでトウモロコシの実をかじり、その実の粒をかじり終わると、さらに実の外の皮をちゃんともとの形に戻しておいた。トウモロコシの取り入れた時になると、多くのかびが生えたトウモロコシの実の残りかすには私たちのかじった跡が残っていた。私のこれまでの人生で一月に穀物を一粒も食べることができなかったのはその年であった。
1982年に私の故郷は天地が覆るようなありさまであった。地元では、世帯ごとの生産請負が始まった。母と村人たちは一緒に土地や山林の割当てに参加したが、どのように割当てたのかは私は知らず、村人たちがこちからあちへと歩いて通っていたことだけを覚えている。ウシやヒツジを割当ててもらうことには私も確かに参加した。
1983年に、世帯ごとの生産請負を実行したため、私の家では99%は雑穀であったにもかかわらず、1年じゅうご飯を腹いっぱい食べられるようになった。
1984年には、私の家では私の記憶の中で初めてブタをつぶした。
1987年には、私の故郷では最初の師範学校学生の姿を目にすることができた。
1988年になると、故郷の人たちは他の地方へ出稼ぎに行くようになった。
1993年には、故郷では自動電話が設置され、交雑種のトウモロコシの栽培を試すことになった。
1994年には、交雑種の水稲の作付けをすることになった。
1995年になると、初めて白黒テレビが見られるようになった。
1997年には、最初のれんが・木構造の家屋がつくられた。
1998年には、最初の造酒業者が現れた。
1999年には、最初のカラーテレビを目にするようになった。
2000年には、初めてのコンクリートの屋根のついた平屋が現れた。
2001年には、最初の携帯電話保有者が現れ、村道も開通した。
2002年には、最初の携帯電話信号塔ができ、卓上電話のコードレス子機というものが現れた。
2005年には、故郷の最後のわらぶきの家がその使命を終えた。
2008年頃には、80%の農家がテレビを保有するようになった。
今では、私の故郷は水利施設工事や村道の建設に力を入れ、農作物を科学的に栽培し、茶とクルミを主とする多種類の経済樹林を発展させ、その地に適したやり方で牧畜業を発展させている。青緑色の群山、肉付きのよい家禽と家畜、意欲満々の人たち、故郷の新農村建設の展望は非常に明るい。
「チャイナネット」 2009年8月21日