◇元代(1271年~ 1368年)
1271年モンゴルのフビライ・ハーンは国号を元と定め、ウスザン(今日のチベット中部、西部、およびそれ以西の地区)、ドゥオガンなどの地が統一された多民族の大元帝国の一部となり、チベット地方は正式に中国の中央政府の直接管轄下に入った。元王朝が中国を統一したのち、チベット族地区の実際の状況に基づいて、中央機構総制院が初めて置かれ、チベット族の僧侶や俗人が中央から地方までの高級官吏を担当した。ウスザン、ドゥオガンなどの地方の行政機構の設置および官吏の任免、昇進や降格、賞罰はみな中央の命に従った。
◇明代(1368年~1644年)
1368年、元朝に代わり明朝となると、元朝の古い勅令や印章を接収し、それに代えて明朝の新しい勅令や印章を発布する方式を採用して、政権は平和的に移行し、チベット地方に対する国家主権を継承した。明朝には、元朝の用いた職官制度はなく、特色ある僧官封授制度を建てた。各地方の政治と宗教面における代表的なリーダーに明朝はそれぞれの称号を与え、また彼らに印章と領地を与えて、それぞれの地方を管理させ、官職の継承は皇帝の批准に拠るものとした。
◇清代(1644年~1911年)
1644年、清朝は都を北京に定め、中国を統一した。清朝は、歴史的な前例に従い、チベットにおいて主権を行使し、前王朝により封じられた官吏が前の王朝の官印を返上し、新王朝が授ける官印に改めさえすれば、元の地位は不変とした。1652年、チベット仏教ゲルグ派のダライ・ラマ5世は北京に召されて順治帝に拝謁し、翌年には、清朝によって正式に封じられた。後にパンチェン5世も康熙帝によって封じられた。ダライ・ラマとパンチェン・オルドニの封号と彼らのチベットにおける政治、宗教における地位は、これによって正式に確立し、以降、歴代ダライ、パンチェンは中央政府により封じられ、次第に定められた制度となっていった。
「人民中国インターネット版」より 2009年3月13日