重慶大爆撃被害者、陳情書提出のため来日

重慶大爆撃被害者、陳情書提出のため来日。 簡全碧さんは1939年から1943年まで続いた日本軍による「重慶大爆撃」の被害者である…

タグ: 重慶,重慶大爆撃,日本軍

発信時間: 2011-12-26 14:33:48 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

簡全碧さん(左から1番目)、内閣府前で日本の弁護団と

12月21日午後3時、重慶市から来た74歳の老人は内閣府の建物を見ながら、こうつぶやいた。「73年、73年だ。私の一生は大爆撃とともにある。今も爆撃の音が耳から離れない。70年後、この歴史を覚えている人がはたしているだろうか。」 

簡全碧さんは1939年から1943年まで続いた日本軍による「重慶大爆撃」の被害者である。今回、内閣府を訪れたのは、中国に生存する大爆撃の被害者を代表して、日本政府に「陳情書」を提出するためだ。 

1939年5月、簡さんの住んでいた重慶市は日本軍が投下した爆弾によって荒野となり、祖母の家に避難せざるを得なくなった。1940年8月、祖母の家もまた爆撃にやられ、祖母は崩れた家屋の下敷きになり亡くなった。そのとき祖母に抱きかかえられていた簡さんは奇跡的に死なずに済んだが、重傷を負った。爆弾の破片が腹と胸に突き刺さり、危ない状態が続いたが、なんとか命を取り留めた。傷口が深かったため、破片を取り出しても、傷がなかなか治らなかった。年少児の簡さんは想像できないほどの苦痛に耐えた。今でも、天気が悪いと傷口が痛むそうだ。 

祖母の家がなくなり、簡さんは行き場がなく、つらい日々を過ごした。妹は他人の家に預けられ、二度と会うことはなかった。母は日に日に体が弱くなり、最後は、日本軍による空襲の恐怖の中で息を引き取った。胸部に刺さった弾丸の破片によって、簡さんの右胸は発育しなくなっていた。 

簡全碧さんは、「日本軍の無差別な爆撃は、家と家族命を奪っただけでなく、私に一生の傷を与えた」と話した。簡さんは今でも、防空壕に避難し、病院で治療をうける光景を夢で見るのだという。簡さんは、「今回、東京に来たのは、日本の爆撃によって中国人がうけた苦しみや痛みを日本政府に分かってもらうためである。70年経った今でも、被害者は苦しんでいる。日本政府がいち早く被害者に謝罪し、賠償を支払うことを期待したい」と述べた。 

重慶大爆撃は1938年2月に始まり1943年8月まで続いた。この5年半の間に、日本軍は臨時首都となっていた重慶に大規模な無差別爆撃を行った。不完全な統計ではあるが、日本軍は重慶や周辺の成都、楽山、自貢などに200回以上攻撃、動員された戦闘機は9000機以上、投下された爆弾は11500発以上だったという。重慶だけでも死者数は10000人以上、17600棟の家屋が損壊した。 

2006年3月、重慶大爆撃の被害者は正式に東京地方裁判所に提訴、民間賠償請求訴訟が始まった。東京地裁はこれまでに裁判を20回開廷。21回目の裁判は来年3月21日に開かれる。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年12月26日

 

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