日本人の唐好きはどの程度なのか。それはまるでお妃争奪戦のようなものだった。
唐の玄宗の時代である天宝11年、日本と新羅の使節が長安で「言い争い」になった。その理由は、席次にある。
日本の正史である「続日本紀」にこの出来事が書かれている。当時、玄宗李隆基は長安の蓬莱宮含元殿で諸藩からの朝貢に応じていた。慣例にのっとり、各国の使節が東西2列で座っている。東側は最初に新羅、次に大食の順だった。西側は、最初が吐蕃、次に日本の順だった。しかし日本の使者である古麻呂はこの席次に抗議した。「古より新羅は、日本に対して朝貢してきた国だ。どうして日本の前に座るのか。礼儀に反する」と。儀式を取り仕切る唐の官吏、呉懐実は、確かに道理だとおもい、新羅と日本の順番をかえさせた。
この言い争いから、日本人の国民性がよく分かる。強者に服従し、弱者を侮辱するのだ。この件によって新羅の面子がつぶされた。しかし面子は実力が合ってこそ保てるものだ。新羅の国力は、唐朝に追いつこうと考える日本とは比較にならなかった。外交の失敗は免れ難かった。
日本人对唐朝“蜜”到什么程度?像妃子争宠一样。
唐玄宗天宝十一年,日本和新罗的使臣在长安上演了一出“争长”事件。所谓“争长”,就是争第一,争座次。
日本官方史书《续日本纪》记载了这件事:当时,玄宗李隆基在长安蓬莱宫含元殿接受诸藩朝贺。按照惯例,各国来使分东西两列而坐:东面,新罗第一,大食第二;西面,吐蕃第一,日本第二。 但是日本使臣古麻吕对座次提出了抗议:“自古以来新罗一直向日本朝贡,为什么座次排在日本之前?不合礼仪!”主持仪式的唐朝官员吴怀实觉得有理,决定将新罗与日本的位置对调。
“争长”事件中,日本人的国民性格一览无遗:服从强者,欺凌弱者。这件事固然伤害了新罗的面子,但面子是靠实力挣来的,新罗国力比不上紧随唐朝脚步的日本,外交失败就在所难免。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年11月26日