超の付く「唐マニア」に変身
戦いに敗北した日本では、勝者の唐軍が都に攻め入ってくるのではないかとの恐怖に包まれていた。九州などの沿海地域には防衛のための砦が数多く作られた。しかしそれは考え過ぎだった。唐はこの島国の領土に何の興味も持ってはいなかった。
2年後、まだ即位の儀式も挙げていなかった天智天皇(中大兄皇子)は、信じがたい報告を受けた。唐から254名の大使節団がやって来たと言うのだ。すでに九州に上陸し、天皇との面会を請うていた。
昨日までの敵である唐人が突然やって来た意図は何なのか。彼らの思惑を図りかねた天智天皇は、馬鹿馬鹿しい方策を採った。唐の使節を九州に留まらせ、飲食の接待をし続けたのだ。帰国させるわけでもなく、都に行くのを許すわけでもなかった。唐の使節団は数か月滞在した後、日本の護送代表団に従われ帰国した。唐高宗の李治がこの使節団を派遣した目的を知るすべはない。しかし当時の唐朝は高句麗と戦闘中であり、おそらく日本の動向を探ったのだと思われる。
痛い目に遭った日本は、もはや軽率に動くことはなかった。強大な大唐帝国が途上国である日本に対し、血の教訓を与えたようなものだった。
きつく痛めつけられた日本人は、だからといって中国を恨むことは全くなかった。日本民族は強者を尊敬する。強く打たれれば打たれるほど、相手を敬服するのだ。唐の使節が来訪した後の遣唐使の人数は、2倍に膨れ上がっていた。
知識吸収に旺盛な日本は、7世紀初頭から7世紀末までの2世紀半の間、唐に向けて次々と遣唐使団を派遣した。毎回少ない時で300~400名、多い時で800人あまりの日本人留学生が、先進文化の吸収という重責を担った。盛唐文化からの様々な知識を海綿のように吸収したことで、大和民族の骨格が出来上がってきた。中央政権や律令制度、暦法、風俗、建築、服飾、医学、文学、芸術、宗教、書道、彫刻の他、刀剣や将棋、相撲といった日本文化の精髄と言われる分野まで、全ては唐から吸収したものである。日本近代の著名な漢学者である内藤湖南の比喩が言い得て妙である。「日本民族は、中国文化に接触する前は豆乳だった。中国文化はニガリのようなものだ。日本民族は中国文化と接触することで、豆腐に変わったのだ。」
揍出个超级“唐蜜”
日本国内,一片战争惊恐,生怕唐军乘胜“直捣黄龙”,于是在九州等沿海地段大量修筑山城作为防线。但日本人多虑了,唐朝对这个岛国的领土毫无兴趣。
两年后,尚未举办即位仪式的天智天皇(中大兄),得到一个令他惊疑不定的报告:大唐一个人数多达254人的庞大使节团,已抵达九州候命请见。
昨天还是死敌的唐人突然来访,意图何在?由于摸不清唐人葫芦里卖什么药,天智天皇无奈之下采取了一个笨方法:把唐使留在九州好吃好喝款待着,既不敢驱赶,也不同意进京,唐使逗留了几个月后,在日本护送代表团殷勤陪同下回国。唐高宗李治派出这个使节团的目的,无从得知,但当时唐朝还在对高句丽用兵,估计意在打探日本动向。
不过,吃了苦头的日本不会再贸然出头了。从技术上说,强盛的大唐帝国给落后的日本上了血的一课。
被狠狠揍了一顿的日本人,却丝毫没有因此对中国怀恨在心。日本民族尊崇强者,你把他打得服服帖帖,他反而更加佩服你——唐使来访后,有了台阶下的日本遣唐使人数,陡然比以往增加了两倍!
从七世纪初至九世纪末约两个半世纪里,求贤若渴的日本先后向唐朝派出十几次遣唐使团,每次少则三四百人,多则八百余人,肩负着“取经”重任的日本留学生们像海绵一样,从盛唐文化里汲取了无数养分,滋养了大和民族。日本同时代的中央制度、律令、历法、节俗、建筑、服饰、中医、文学、艺术、宗教、书画、雕塑,甚至刀剑、围棋、相扑这些后世日本的技艺强项,统统来自唐朝。日本近代着名汉学家内藤湖南的比喻很精妙:“日本民族未与中国文化接触之前是一锅豆浆,中国文化就像碱水一样,日本民族与中国文化一接触,就成了豆腐。”