海上の「赤壁の戦い」
うねうねと400キロ伸びる熊津江は、百済の都を取り巻く河である。下流では、いくつかの支流に分かれ、黄海へと流れる。その支流のひとつの、河の水が海に流れ込む場所こそ、かの有名な「白村江」である。
663年8月17日、白村江の海上では、二つの艦隊が武装して合対峙していた。頭には髷を結い、手には長い弓を持った背の低い倭人を始めて見たとき、すでに百戦をこなしてきた唐の兵士に、特に大きな感慨はなかった。彼らのほとんどが、屈強な突厥人や吐蕃人、高昌人、高句麗人と戦ってきたからだ。それに比べると、倭軍は大したものではなかった。
唐軍と日本軍の戦力を比較すると、唐軍は軍艦170隻と2万人(新羅兵5000人を含む)の兵士。日本軍は軍艦1000隻と3万2000人(百済兵5000人を含む)の兵士だった。
日本軍は数の上で有利だった。特に軍艦は唐軍のほぼ6倍である。しかし国力は唐が勝っており、楼船、艨艟、闘艦など巨大な軍艦があったほか、走軻、遊艇、海鶻といった小型船があった。とりわけ、火器を武器とする「火艦」があったことで、全体の戦闘力が格段に上がった。一方、日本軍の船は全体的に小柄で貧弱だった。日本軍は、性能面では完全に劣勢にあったのである。
海上赤壁之战
蜿蜒起伏长达400公里的熊津江,把百济都城环抱在怀中,最后分成若干支流注入滔滔黄海,这其中,一条支流的入海口千古扬名。
白江口。
公元663年8月17日,白江口海面上,两支舰队在武装对峙着。第一次面对面看到头上梳髻、手持长弓的矮个头倭人,身经百战的大唐士兵没有多少感慨,因为他们中的许多人和强悍的突厥人、吐蕃人、高昌人、高句丽人战斗过:蛮夷人不过如此。
唐日两军的实力对比为:唐军170艘战船,二万人(含新罗兵五千);日军1000艘战船,三万二千人(含百济兵五千)。
日军在人数上占优,尤其战船几乎是唐军的6倍,但是唐朝国力富足,战船主要是楼船、艨艟、斗舰等高大船只,加上走轲、游艇、海鹘等小型船,特别是还有一种配备了火器的“火舰”,战斗力明显占上风。而日军的船只普遍小而简陋,性能方面完全处于劣势。