戦後日本における米軍向け慰安婦の悲惨な生活(2)

戦後日本における米軍向け慰安婦の悲惨な生活(2)。 「正常」に営業を続ける慰安所の慰安婦たちの状況は悲惨で見るに堪えないものであった。かつて慰安婦として働いていた若い女性・マリー(仮名)は日記に次のように記している。「昼も夜も米軍兵はガムを噛みながら外に並んでいる。女たちは部屋の中で監禁されているのと同じ。拒否する自由など全くない」…

タグ: 戦後 日本 慰安婦 パンパン オンリー

発信時間: 2010-07-27 13:13:22 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

第一に、米軍兵士は快楽を求める際、避妊用具の使用を嫌い、慰安婦たちも占領軍の暴威に抵抗することができなかったため、慰安婦と米軍兵士の性病感染率は90%を超えていた。

第二に、人権活動に熱心だったルーズベルト米国大統領夫人が、米国国内の兵士の夫人連合による抗議の声を聞きつけ憤慨し、マッカーサー最高司令官に次のように厳しく問いただした。「私たち合衆国の若者は公然と日本の売春宿に出入りし、性病にかかっているのか。司令官としてこれを誇りに思うのか」と。

こうして、1946年1月21日に連合軍総司令部は「公然売春は民主主義の理想に背く」との理由により、日本政府にすべての慰安所の閉鎖を求めた。同月26日、日本政府は全国各地の警察に指示に従い職務を執行し、米軍兵士の慰安施設への訪問継続を謝絶するよう命じた。

日本政府は直ちに慰安婦を解散させた。合計5万5000人にものぼった慰安婦たちは満身創痍のまま、一切補償を受けることなく放り出された。

これら慰安婦のうち、多くの者がその後も水商売に進み、米軍兵士に「パンパン」と呼ばれる者もあれば、「オンリー(特定の上級将校などと関係があった売春婦)」として囲われる者もあった。

「パンパン」の運命は「オンリー」よりも痛ましいものだった。彼女たちは米軍が通る道の両側に立ち、安物の口紅を濃く塗り肌の露出の多いスカート姿で、様々ななまめかしい表情を見せながら客引きをした。わずかな収入のために米軍兵士に精一杯尽くし、非人間的な生活を送っていた。

「オンリー」という名称は英語の「only」を由来としていた。その運命は比較的明るいと思われていたが、米軍兵士は帰国する際、無情にも彼女たちを捨て、彼女たちとの間にできた子どもさえも顧みなかった。

半世紀が過ぎた今も、日本政府はこれら慰安婦たちに何ら補償を行っていないばかりか、大和民族の尊厳のために、こうした事実があったことも認めていない。忘却を選択することは「優秀な」民族が栄光を保持する近道と言えるのだろうか。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年7月27日

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