その後まもなく、内田定槌は堀口九万一領事官補に事件の経緯を書いた報告書を作成させ、「特使であったか郵便であったかはっきり記憶しないが、とにかく本省(日本外務省)に送った」そうである。外務省はその報告を受け取った後、事件の処理を行うために臨時公使として小村寿太郎政務局長を朝鮮に遣っている。
閔妃殺害計画の経緯を記した内田定槌の回顧録によると、当時、宮内府兼軍部顧問であった岡本柳之助が、「大院君(興宣大院君のこと。高宗の実父)を引っ張り出すのが一番よかろうと言うことになり、岡本が大院君にすすめに行った。(中略)大院君はなかなか出てこない。愚図愚図していると夜が明けだした(中略)、多勢の日本人壮士たちも(岡本柳之助や堀口九万一と)一緒になって無理やりに大院君を引っ張り出し(中略)、王城(皇居)に向かった」ことが記されている。
回顧録によると、朝鮮王国の裁判において、朝鮮人3名が閔妃殺害事件の犯人とされ、絞首刑の判決が下っていたため、日本の裁判所はこの事件を審理する必要はなかった。最終的に、その他関係者はすべて無罪となり釈放された。閔妃殺害の犯人は朝鮮人だと決めつけられたが、事件の真相は回顧録に記載された通りであると、内田定槌は記している。(記者:張哲)
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年10月14日