米国が日本の琉球併呑に手を貸したいきさつ

米国が日本の琉球併呑に手を貸したいきさつ。 中国の清末期以降、中日間で琉球問題、日本の台湾侵略問題などが議論になると、米国がいつも介入してきた。チャールズ・ウィリアム・ルジャンドル駐厦門領事はかつて日本の台湾侵略と琉球併呑に直接介入した…

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発信時間: 2011-05-03 17:22:59 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

文=清華大学現代国際関係研究院副院長 劉江永

中国の清末期以降、中日間で琉球問題、日本の台湾侵略問題などが議論になると、米国がいつも介入してきた。チャールズ・ウィリアム・ルジャンドル駐厦門領事はかつて日本の台湾侵略と琉球併呑に直接介入した。

1871年、日本の明治政府は琉球国を外務省管轄の「琉球藩」とし、琉球に清との朝貢関係を断絶するよう求めた。その翌年、尚泰琉球国王が藩王に封じられた。

そんな中、1871年に琉球の八重山諸島の島民69人が台湾に漂着し、うち54人が高山族(台湾の原住民)に殺害された。当時の清政府は高山族を、漢化が進んだ「熟番」と山奥に住み、教化の及ばない「生番」とに区分していた。清政府の官僚は日本側に、「加害者は皆生番の原住民で、化外の民(国家統治の及ばない者)」と説明。この説明を日本側が誇大解釈して、台湾全土を「化外の地」と摩り替えてしまった。そこで大久保利通、大隈重信両参議院議員が、「台湾土蕃の部落は清国政府政権が及ばない、無主の地と見なすべき。我藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務にして云々」と主張する「台湾蕃地処分要略」を連名にて提出した。

米国は当時、日本に台湾占領政策をそそのかし、手を貸していた。デ・ロング駐日公使は、台湾は「無主の地」に等しいとし、日本側にルジャンドル駐厦門領事を顧問として推挙した。ルジャンドルはフランス生まれの貴族で、のちに米国籍の女性と結婚し米国に渡る。南北戦争中、北軍に加わり、陸軍少将となる。1866年、駐厦門領事兼台湾領事に任命。1867~1872年の間に度々、米軍艦に同行して台湾に行き、「台湾通」になる。1872年、日本の外務省に招聘後、台湾と澎湖列島は東アジア戦略の要地であるため、日本は占領するべきだと何度も強調。武力を行使する前に、八重山諸島島民の殺害事件を持ち出し、清政府の台湾に対する主権が及ばないことを証明するよう口添えした。1874年4月、西郷従道中将率いる遠征軍の台湾出兵の際も、ルジャンドルが軍に付き添って道案内をし、米軍艦も日本軍の応援に駆けつけた。

ルジャンドルが日本政府に提出した「台湾攻め計画書」には、「台湾平定後、清政府は必ず日本の台湾占領を否定する。そのため、第一陣の兵士8千人のほかに、さらに4千人を澎湖諸島に送る必要がある。その兵が厦門(アモイ)に入り、そこを占領して清政府を押さえつければ、平和を回復し、出兵にかかった費用を得ることができる」といった内容が記されている。

清政府はこれに対して、台湾は中国に属すると抗議を唱え、日本軍の撤退を求めた。日本軍は台湾の高山族の抵抗に遭い、また感染病が流行して死傷者を多く出し、清政府との交渉を余儀なくされる。清政府は不平ながら琉球を手放し、台湾を守った。1874年10月、「中日北京専約」が締結。1875年7月、日本政府は琉球藩王に清への朝貢取り止めを命じる。1879年1月、尚泰琉球藩王に1週間以内に日本国憲法への遵奉を誓わせる。同年4月、琉球が沖縄に改名された。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月3日

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