共産党90周年 苦難に満ちた抗日戦争の中で成長・発展

共産党90周年 苦難に満ちた抗日戦争の中で成長・発展。 日本の侵略者が華北への侵略を強める情況にあって、中国の各界は内戦の停止と抗日戦争を戦うことを求めた。中国共産党は、多くのルートを使って国民党に向け内戦停止と抗日協力を呼びかけた…

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発信時間: 2011-06-13 17:03:41 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

抗日戦争に参加した中国農民と子ども

抗日戦争に参加した中国農民と子ども

日本の侵略者が華北への侵略を強める情況にあって、中国の各界は内戦の停止と抗日戦争を戦うことを求めた。中国共産党は、多くのルートを使って国民党に向け内戦停止と抗日協力を呼びかけた。

しかし、蒋介石はなお中国共産党のいる陝西省北部の根拠地に向けて「包囲討伐」の準備を続けていた。1936年12月4日、蒋介石は西安に到着後、張学良と楊虎城に部隊を率い、陝北前線で「包囲討伐」を行うよう迫った。こうした状況下で、張、楊の2人は「兵諌」を発動し蒋介石を拘束した。これが内外を震撼させた「西安事件」である。そして、交渉を経てついに蒋介石に「共産党討伐を停止し、紅軍と連合して抗日する」など6項目を承諾させた。これ以降、内戦は実質的に停止し、国共両党の関係は好転し始める。

中国共産党は、抗日戦争が開始されるや広範に民衆を発動し、武装し、民衆に頼りとする対日作戦を提起し、人民戦争の全面的抗戦路線を実行した。しかし、大地主や大資本家階級の利益を代表する国民党は、民衆による抗日救国運動の急激な高まりが自らの支配的地位をおびやかすことを恐れ、単に政府と軍隊が抗戦する一面的抗戦路線を選んだ。

中国共産党は全面的抗戦路線を貫徹するために、敵の後方で戦場を開くという戦略を決定した。人民の軍隊が敵の後方で民衆を発動し、独立自主の遊撃戦を展開し、友軍と力を合わせ、敵の後方で戦場を開き、抗日根拠地を築き、人民の軍隊を発展・拡大させた。敵後方での抗日遊撃戦の進展に伴い、中国の抗日戦争は、次第に戦略上の相互協力をする2つの戦場を形成するようになっていった。1つは主に国民党が率いる軍が担う正面の戦場で、もう1つは共産党が指導する軍が主力の敵後方の戦場だった。

1938年10月、武漢と広州が攻め落とされ、中国の抗日戦争は戦略対峙の段階に入った。日本の侵略軍は、中国を滅亡させる大方針を堅持しながら侵略の策略を調整し、戦場の戦略的進攻を停止して、主要な戦力で八路軍と新四軍を攻撃した。国民党に対しては政治的投降勧告を主にし、軍事的打撃は補完的なものとする方針だった。

蒋介石を代表とする国民党の一部は消極的な抗日、積極的な反共政策を推し進め始めた。全国の人民と国際世論は総じて共産党に同情的で、国民党当局による考えの異なるものを滅ぼし、抗日戦争を破壊しようとする姿勢を厳しく非難した。中国共産党の全国における政治的地位はこれまでになく高まった。1940年末までに、中国共産党が指導する軍隊は抗戦開始時の5万余りから50万に膨れ上がり、さらに地方には武装民兵を多数擁していた。

1941年から42年にかけて、世界ではファシスト勢力が猛威をふるっていた。日本軍の激しく頻繁な攻撃のもと、抗日根拠地は縮小し、総人口は1億人から5000万人以下となり、人民の軍隊は50万人から40万人に減少した。そうした中、中国共産党が指導する敵後方の軍と民衆が、十分に人民戦争の威力を発揮していた。スズメ戦、地下道戦、地雷戦、破壊・襲撃戦、水上遊撃戦、武装工作隊派遣など、各種の有効な敵をせん滅する戦法を創出し、抗日活動を堅持した。

1945年8月15日、日本の天皇が無条件降伏を宣言し、中国の抗日戦争は勝利のうちに終結した。中華民族は抗日戦争勝利のために甚大な犠牲を払った。中国軍民の死傷者は3500万人、直接の経済的損失は1000億ドル、間接の経済的損失は5000億ドルに達した。

中国共産党は抗日戦争の中で120万余りの党員を持つ大きな党に成長し、人民の軍隊は120万人の規模となり、抗日民主根拠地の面積は100万平方㌔、人口は1億に近づいた。これらすべてが、その後政権を奪取するための基礎となった。(『中国共産党簡史』(中国共産党党史出版社)に基づく 構成=王 征 翻訳=井上 俊彦)

「人民中国インターネット版」より2011年6月13日

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