◇日本に残る「広州の跡」
明治維新以降、強国の道を探るべく多くの広東人が日本へ赴いた。彼らは日本の先進的な教育を受け、積極的に新聞を創刊、庶民を啓発し、国内に革命の火を点した。1911年の辛亥革命をきっかけに多くの広東人が帰国し、革命に身を投じた。日本が中国を侵略した時期には、日本の広東人は厳しい状況に立たされ、祖国と同じ苦難を味わった。
広州の黄埔古村にある「日本楼」は、中日のこの間の歴史を物語っている。
◇日本人嫁が軍刀から村民を守る
「日本楼」は2階建ての小さな洋風の建物で、門に刻まれた太陽の浮き彫りが日本らしい雰囲気をかもしている。1900年、黄埔古村の村民、馮佐屏は日本に留学、そこで日本人の娘と知り合った。二人はすぐに結ばれ、20年代に馮家2世代は日本から帰国した。馮佐屏は妻の故郷への想いをくんで妻のためにこの楼を建てた。
日本が中国を侵略した際、旧日本軍はこの村にも侵入し、村人を見るや虐殺した。突然、馮佐屏の妻が日本軍の前に姿を現し、宝刀をかざした。旧日本軍はその刀を見るや軍刀を下ろし、恭しく刀を崇め、村を後にした。それ以後、旧日本軍がこの村を蹂躙することはなかった。
◇宝刀の言い伝え
この刀に関して黄埔古村では3つの言い伝えが残っている。一つは、馮の妻は日本の天皇の縁戚にあたり、この刀は彼女の嫁入り道具だという言い伝え。2つ目は、彼女は幕府の最後の将軍の姪で、宝刀は将軍が授けたものだという言い伝え。3つ目は彼女は当時のある首相の姪で、刀はその首相から贈られたものだという言い伝えだ。
村の歴史に詳しい胡永湛さん(75)は3番目の言い伝えを支持する一人だ。「日本は階級制度が厳しい国だ。彼女が皇族か将軍の親戚なら外国人や平民に嫁げるはずがない」。胡さんは、日本人嫁の村への貢献は中日両国人民の友情の証だと語る。
◇横浜の3割の華僑が帰国し、革命に参加