二、日本は釣魚島を窃取した
日本は明治維新以降、対外侵略拡張を加速した。1879年に日本は琉球を併呑し、沖縄県に改名した。その後ほどなく、日本は釣魚島占拠をひそかに画策し、また甲午戦争の末期に釣魚島をひそかに版図に「編入」した。その後、日本は中国に不平等な『馬関条約』(下関条約)の締結を強いて、台湾全島および釣魚島を含むすべての付属島嶼を割譲させた。
(一)日本は釣魚島窃取をひそかに画策した
1884年、釣魚島に初めて上陸し、その島が「無人島」であることが分かったと公言した日本人がいた。日本政府はただちに釣魚島に対して秘密調査を行い、占拠することを企んだ。日本のこのような企みは中国の警戒を引き起こした。1885年9月6日(清・光緒11年7月28日)付けの『申報』に、「台湾北東部の島で、最近日本人が日本の旗をその上に掲げ、島を乗っ取らんばかりの勢いである」との記事がある。中国の反応に配慮したため、日本政府は軽々しい行動に出られなかった。
1885年9月22日、沖縄県令が釣魚島を秘密調査した後、山県有朋内務卿に提出した秘密報告では、これらの無人島は「『中山伝信録』に記載された釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼などと同一の島嶼であり」、すでに清朝の冊封使船によってよく知られ、かつ琉球に向かう航海の目印として、それぞれ名称が付けられている。したがって、国の標杭を立てるべきかどうか懸念があり、それについて上の指示を仰ぐ、としている。同年10月9日、山県有朋内務卿は井上馨外務卿に書簡を送り、意見を求めた。10月21日、井上馨から山県有朋宛ての回答書簡では、「この時機に公然と国の標杭を立てれば、必ずや清国の猜疑心を招く。ゆえに当面は実地調査およびその港湾の形状、後日開発が期待できるような土地や物産などを詳細に報告するにとどめるべきである。国の標識設置や開発着手などは、後ほど機会を見て行えばよい」としている。井上馨はまた、「今回の調査の件は、おそらくいずれも官報や新聞に掲載しないほうがいい」ことをとくに強調した。そのため、日本政府は沖縄県が国の標杭を立てる要求に同意しなかった。
1890年1月13日、沖縄県知事はまた内務大臣に、釣魚島などの島嶼は「無人島であり、今までその所轄がまだ定められていない」、「それを本県管轄下の八重山役所の所轄にしてほしい」との伺いを出した。1893年11月2日、沖縄県知事は国の標杭を立て、版図に組み入れることをふたたび上申したが、日本政府はやはり回答を示さなかった。甲午戦争の2カ月前、すなわち1894年5月12日に、沖縄県は釣魚島を秘密調査した後、次のとおり最終結論を出した。「明治18年(1885年)に県の警察を派遣して同島を現地踏査して以来、さらなる調査を行ったことがないので、より確実な報告を提出することができない。…そのほか、同島に関する旧記文書およびわが国に属することを示す文字の記載や口碑の伝説などの証拠はない」。
日本外務省が編纂した『日本外交文書』では、日本が釣魚島の窃取を企んだ経緯がはっきり記載されている。その中の関係文書が示しているように、当時日本政府は釣魚島を狙い始めたが、これらの島嶼が中国に属することをよく知っており、軽々しい行動に出られなかったのである。
1894年7月、日本は甲午戦争を発動した。同年11月末、日本軍は中国の旅順口を占領し、清朝の敗勢がすでに明らかになった。こうした背景の下で、12月27日、日本の野村靖内務大臣は陸奥宗光外務大臣へ書簡を送り、「今や昔とは情勢が異なる」とし、釣魚島に国の標識を立て、版図に組み入れることについて、閣議で審議決定することを求めた。1895年1月11日、陸奥宗光は回答書簡で支持の意を表した。同年1月14日、日本の内閣は釣魚島を沖縄県の管轄下に「編入」するという秘密決議を採択した。
日本の公文書は、日本が1885年に釣魚島への調査を開始し、1895年に正式に窃取するまでの過程は終始秘密裏に進められており、一度も公表されたことがないことをはっきりと示している。このことは、釣魚島の主権に対する日本の主張が国際法に定められた効力を持たないことをさらに証明している。
(二)釣魚島は台湾島と共に日本に割譲することを強いられた
1895年4月17日、清朝は甲午戦争に敗れ、日本と不平等な『馬関条約』に調印し、「台湾全島およびすべての付属島嶼」を割譲することを強いられた。釣魚島などは台湾の「付属島嶼」としてともに日本に割譲されたのである。1900年、日本は釣魚島を「尖閣諸島」と改名した。