こうした中、中日双方は国交樹立の準備をするための懸橋を必要としていた。「最終的に私の父がこの重任を担うことになった。私たち一家が中国に来たのはこのためだ」と西園寺先生は語った。12年8カ月に及ぶ中国滞在中、西園寺公一先生は政治、経済、貿易、文化など各分野の中日交流の疎通を図る重責を担った。北京台基廠大街1号の西園寺公一先生の事務所は中日交流の重要な窓口となった。
まさに日本の民間が力強く推し進めた結果、反中の佐藤栄作内閣が倒れた後、1972年に田中首相が中日国交樹立という最終的選択をしたのだ。
西園寺先生は「日中両国の今日の友好は確かに苦労して得られたものだ。日本社会党の浅沼稲次郎委員長は中国を数回訪問し、周総理と会った。日本でも早期国交樹立のために奔走し、日中友好を積極的に訴えた結果、最終的に右翼に殺された。奔走し訴えた流血の犠牲。日中友好のために上の代の人々が努力した歴史を、日中両国の若者はくれぐれも忘れてはならない」と厳かに語った。
■民間交流が重要
西園寺先生は「当時築かれた日中民間交流の土台は依然堅固だ。私としては、民間交流の重視は1つの経験だ」と指摘。「政府間の関係が悪化した時には、民間の役割を重視しなければならない」と強調した。
現在の日本の右傾化が中日間の衝突をもたらす可能性について質問すると、西園寺先生は「根本的に言って、日本人はやはりアジア、中国人民との友好を望んでおり、その思想基盤は比較的堅固だ。現在の問題はやはり政治家が賢明でないことで、日本のメディアにも偏見がある。教育の欠陥のために日本の若者は戦争の恐ろしさがわかっていない」と述べた。