関羽
関羽。 関羽(160~219)は、字が雲長。蜀漢が建国される前の大将であり…
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関羽
関羽(160~219)は、字が雲長。蜀漢が建国される前の大将であり、蜀漢四虎将の筆頭に数えられる。劉備の最も初期の部下であり、河東解良の人である。若いうちに故郷で人を殺し、逃亡。逃亡先で劉備・張飛などと出会った。
徐州での呂布討伐の戦いにおいて、関羽は傑出した働きをし、曹操に注目された。劉備の造反の後、曹操を負かすために関羽は曹操に捉えられた。自分が劉備の下を去るつもりはないという関羽の言葉を聞いた曹操は、劉備の消息を聞くと、直ちに関羽にここを離れるように言った。その後、袁紹が騎兵して白馬を攻めると、関羽は曹操軍の大将として出陣し、袁紹軍の大将である顔良を斬り殺した。その後で項羽は曹操を離れ、袁紹軍にいた劉備の下へ戻った。
赤壁の戦いでは、関羽は劉備軍の大将として出陣し、華容道を守った。曹操がこの場所にやってきて両軍が衝突したが、関羽は曹操を捉えることができなかった。戦の後、関羽は長沙に出征したが、韓玄軍の大将・黄忠に敗れた。しかし劉備軍が大軍で進撃し、最終的には黄忠を降伏させ、長沙を手中にした。その後劉備は四川に進出し、諸葛孔明は第二陣の援軍のために起兵し、関羽に荊州を守らせた。
荊州の守備を任された後の項羽は、徐々に凶暴になっていった。東呉に対する戦略において、項羽は許され難い間違いを犯した。孫権はまず項羽と親交を結ぼうとしたが、項羽に拒絶されたのみならず、痛罵を浴びせかけた。その後、東呉を攻めようとしたが、逆に敗北を許してしまった。215年、魯粛の率いる単刀会が関羽をやりこめ、蜀の三郡を東呉に割譲せざるをえなくなった。それを聞いた曹操は于禁、龐徳を援軍にして救援にあたらせた。大きな戦いを経て、白馬将軍の龐徳は関羽を目と鼻の先まで攻め込み、関羽は一時撤退を余儀なくされる。この時、大雨が降ったことが関羽にとって幸いした。山谷に布陣していた曹軍は洪水に見舞われ、水に沈んだ。関羽は千禁を生け捕りし、龐徳を切り殺した。その後、樊城を攻めたとき、毒矢に当たった。軍医は関羽のために骨を削いで傷を治し、やや快方に向かった。このとき、東呉の呂蒙は「白衣渡江の計」で荊州を奪い取った。さらに関羽は、曹仁や満寵にも敗れて退路を断たれ、麦城に退くほかなかった。
麦城で関羽は四方に助けを求めたが、このときの関羽はすっかり同僚に愛想を尽かされており、糜芳も劉封も援軍を差し出すことはなかった。関羽は単騎で突入するほかはなく、呉軍に突っ込んだが、最後には潘璋に捉えられた。建業城に至って孫権に殺害された。享年60歳。
歴史上の関羽と『三国演義』で神格化された関羽では、だいぶ異なるところがある。歴史上の関羽は、赤兎馬にも乗らず、青竜刀の舞もしない。「酒が温かいうちに華雄を斬る」といったエピソードは、完全に孫権の功労を奪っている。文丑の謀殺は曹操の謀略であり、彼が顔良を討ち取った件の第一功労者も荀攸であって関羽ではない。「単騎、千里を走る」エピソードもあり得ない話で、華容道のエピソードも物語と史実ではかなり異なる。車冑や蔡陽を殺したのも劉備の功労である。単刀会にいたっては、真の英雄は魯粛というべきである。要するに、『三国演義』の関羽は人間というより神というべきだろう。しかしこの物語で描かれる関羽のイメージは、深く人々の心に刻まれてきた。はるか昔から関帝は、多くの家で祀られているのである。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年2月
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