千年を超える都市間交流
上海万博のテーマは「より良い都市、より良い生活」である。中国と日本の間では、都市は互いに交流の中で成長し、民族や文化を越えて千年以上も交流を続けてきた。
その象徴は日本の平城京であろう。二〇一〇年は、平城京(奈良)遷都千三百年にあたり、奈良では盛大な祝典を行う。平城京は、七一〇年ごろ建設が終わり、都もここに移った。その四十三年後の七五三年ごろ、鑑真和上が六回目の航海でやっと日本にたどり着いた。そして、新しい奈良の都に、宗教、医学、さらに当時最新の建設技術などを伝えた。
七一〇年といえば、鑑真和上は道岸禅師に従い、長安で「戒」を受けてから一年経ったころだった。その後、七一五年に故郷・揚州に戻り、一般大衆に戒を授けたが、その数は四万人を超え、「江淮の間、独り化主と為り」(揚州では鑑真一人だけが戒を授ける)と言われた。
その後、留学僧の栄叡と普照に招請され、鑑真和上は海を渡って日本へ赴く決意をした。当時の平城京では、仏教を信仰すると誓えば、儀式を行わずとも僧尼になれる「自誓授戒」が一般的だった。しかし、鑑真和上は「戒」よりも、僧尼の間で誓い合う「律」を重視し、律によって仏教を高度化していくことを目指していた。律を誓う場合、十人以上の正式の僧尼の前で儀式「授戒」を行う必要がある。栄叡と普照から日本の「戒」についての話を聞いたであろう鑑真和上は、長安から揚州へ帰る時の気持ちと同様に、使命感を持って日本に渡る決心をしたのではないか。
度重なる困難を努力によって乗り越え、十年後に日本に到着した鑑真和上は、翌年の七五四年に東大寺大仏殿に戒壇を築き、天皇から僧尼まで四百人に菩薩戒を授けた。またいくつかの戒壇を設置して、戒律制度を急速に普及させた。
仏教は当時の文化の最高水準を代表していた。戒律だけでなく、鑑真和上は唐招提寺の建立などにも力を尽くし、書道、彫刻(芸術)、薬草(医学)、文学、印刷などの知識も日本に伝えた。鑑真和上の足跡は、今も唐招提寺、鑑真和上の坐像などの形で、都市間の交流の証として残されている。