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日本に学べ トウ小平と中日経済交流
発信時間: 2008-11-06 | チャイナネット
二、大平正芳氏との4度の会見 円借款と中国経済の倍増構想

 鄧小平氏は一生の間に大平正芳氏と4回会見している。日本訪問の期間に鄧氏は大平氏と2度会見した。1度目は集団での会見、2回目は単独での会見だ。鄧氏はなぜ2回大平氏と会見したのか。この答えは2回目の会見の中で見ることができる。2回目の単独会見で大平氏は鄧氏に対して日本の戦後の経済発展の情況を大まかに紹介した。大平氏は戦後の日本経済の発展を経済復興期、基礎確定期、ハイスピードの成長期、多様化の時期という4つの時期に分けた。大平氏によると、経済が立ち遅れている時には、チャンスをつかんで重点的に突破を行い、有限の資金と物を最も重要な分野に利用し、重点産業に対する重点的支援を採用、いわゆる「傾斜式の発展モデル」を実施する必要があると述べた。大平氏はまた日本の経済飛躍の経験を「経済を中心とし、チャンスをつかみ、重点的に突破した」と概括し、鄧氏に極めて大きなヒントを与えた。私の考えでは、中国の改革・開放後に経済を中心とする戦略方針が出されたのは、大平氏のヒントによるものだろう。

 また会見で大平氏は日本の所得倍増計画も紹介。大平氏は、国民にはっきりした目標を与えることで初めて大衆を動員し、経済発展の合力を形成することができると考えていた。鄧氏が後に、中国経済(GDP)を2倍にするという世界を驚かせる構想を提出した際に、鄧氏自身も中曽根元首相に対して、大平氏からヒントを得たと述べている。

 1979年1月28日、中国の旧暦の元日に鄧氏は米国訪問に出発した。米国へのフライトの途中で鄧氏は突然思いつき、大平氏に電報を打って数日後に東京で会見することを提案し、長い会談を行った。この時の大平氏は既に日本の総理で、政務の忙しさは言うまでもなかったが、それでも大平氏は快諾した。これは鄧氏と大平氏の3回目の会談となった。

 この会談で大平氏は、日本が中国の改革・開放を断固として支援し、知力や物力といった面で中国を支援する意志があると明確に表明した。中国にとってはこれは正に困難な時の援助であり、きわめて大きな支援であった。当時は西側国家は中国の改革・開放に対して様子見の態度で、支援を表明した国家は一つもなかったからだ。会見で大平氏はまた、中国の改革・開放、経済発展で日本政府の低利息の貸付、一般に言われる円借款(ODA)を利用することができると申し出た。大平氏は、中国の改革・開放で最も困難な問題は資金であることを十分理解していたためだ。その後、谷牧副総理が訪日し、円借款の問題について日本側と具体的な交渉を行い、鄧氏と大平氏の先の会談の内容を実際に具体化した。

 鄧氏と大平氏の4回目の会談は1979年12月6日で、大平氏が日本の総理として訪中した時だ。今回の訪中で中国へ長期的・低利息の円借款提供の計画が開始され、同年に500億円の借款が提供された。同時に大平氏は人材育成面で無償援助を提供することを決定し、「大平学校」と呼ばれる人材育成はこのようにして開始された。

 12月6日に鄧氏は人民大会堂で大平氏と会見した。大平氏は鄧氏に対して、中国の将来の壮大な設計図は何で、どのような目標を達成するつもりかと尋ねた。鄧氏は1分間ぐらい答えなかった。未来の目標は当時の中国ではまだ明確はなかったからだ。しばらく黙った後で鄧氏は、我々は今世紀末に国民経済の2倍の成長を実現すると述べ、その時には「小康水準」に達し、「小康社会」に入るだろうと説明した。世界を揺るがした、当日の国際ニュースのトップニュースとなった中国国民経済の倍増というスローガンは、こうした背景の下で出されたのだ。

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