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日本に学べ トウ小平と中日経済交流
発信時間: 2008-11-06 | チャイナネット
三、大来、向坂氏を中国の改革・開放の顧問に招聘

 計画作成(出島理論の啓発)では鄧氏の指示に基づき、谷牧副総理が計画し、世界的範囲で中国政府のために適切な経済顧問を探した。多方面との交渉を経て、ドイツのGustov氏、日本の大来佐武郎、向坂政男の3人を選んだ

 新中国の歴史上、外国の専門家、特に日本の専門家を中国国務院の経済顧問として招くことは全く破天荒な初めてのことだった。1950年代前半に中国がソ連に一辺倒に依頼した政策を実施していた際には多くのソ連の顧問を招聘したが、政府の政策決定の中心に携わる顧問はなかった。改革・開放が中国の未来の運命を決定する重要な時に、2人の日本の友人を中国政府の経済顧問に招聘したことは、中日関係史上でかつてないことであり、中日友好の不朽の業績として中日友好の歴史上に永遠に記録され、中国人民の心にも刻まれた。

 1979年1月末、旧暦の春節の期間に大来佐武郎氏と向坂政男氏は中国政府の招待に応じて北京を訪れた。釣魚台国賓館で谷牧副総理は経済関連の国務院各部・委員会の主な指導者を集めて会議を開き、大来佐武郎氏と向坂政男氏に戦後日本の経済発展と世界経済の発展モデルについて報告するよう要請した。これは中国の高官が改革・開放をスタートした後に、初めて聞いた日本人の講義であり、名実共に改革・開放の啓蒙の授業であると言えるだろう。中国の改革・開放に与えた影響はかつてないものがある。

 大来氏と向坂氏は西側国家の経済発展を米国モデル、ドイツモデル、日本モデルの3つのモデルに概括した。日本モデルは欧米モデルを参考とし、その基盤の上にマルクス・レーニン主義経済学のエッセンスを融合させたものだ。1950~60年代にマルクス・レーニン主義の経済学者は日本で非常に人気だった。政府誘導型の経済モデルは日本のマルクス・レーニン主義の経済学派の思想に端を発する。

 大来氏はまた当時タイで設立されていた経済特区の経験も紹介した。講演の中で大来氏は明治維新前に日本が長崎に設置したオランダ貿易区の例を挙げた。江戸時代に日本は鎖国政策を取ったが、長崎で1カ所を設け、外界と隔絶し、特殊な政策を実施してオランダと自由貿易を行っており、この開放地を出島と呼んでいた。出島の例は中国の高官は初めて聞いたもので、皆新鮮さを感じた。そのため、中国の経済特区や開発区設立は「出島理論」の影響と啓発を受けたものだという人もいる。この2つの関係がどうなのかは私は知らないが、興味深い例を挙げれば、当時国務院常務副総理だった李先念の机には、確かに「出島」に関する資料が置かれていた。

 また、特区の貨幣に関する話がある。中国で特区を設立した後、特区の貨幣を発行するかどうかで論争があった。意見の一致が見られない中で、谷牧副総理は大来氏の意見を聞くことを提案した。大来氏は訪中して、説明を聞くと、断固として「私は特区の貨幣を発行するのには反対だ」と言った。理由は、中国には当時、人民元だけでも少なくとも二重の為替レートが存在し、兌換券もあり、それでも少なくとも二重のレートが存在していた。もし特区貨幣を発行したら、少なくとも二重のレートにしなければならず、中国は最終的に貨幣を統一するのだから、特区の貨幣を発行する必要はないというものだった。皆大来氏の分析を聞いて非常に道理にかなったものだと感じ、特区貨幣はこうして取りやめとなり、印刷されていた紙幣も廃棄された。

 大来氏と向坂氏が中国の改革・開放に計画を提出し、遺憾なく実力を発揮していたこの時、1979年11月8日の大平首相の第二次内閣改造で大来氏は内閣外務大臣に任命された。日本の法律では、国家公務員は他の非政府の職務を兼任することは許されていないため。大来氏の中国国務院経済顧問の職は終わりを告げることとなった。これまでの知力面での協力を延長するために、中日双方は交渉し、新たなプランを発表した。中日両国がハイレベルの経済政策決定諮問機関である中日経済知識交流会を成立するという方案だ。

 1980年に中日経済知識交流会は成立した。中国側は谷牧副総理が顧問、国務院の馬洪副秘書長が代表をつとめ、メンバーは経済関連の国務院の各部・委員会の主な担当者で、後に国務院総理をつとめた朱鎔基もそのメンバーの一員だった。日本側は大来外相が顧問、国際エネルギーフォーラム議長の向坂政男氏が代表で、メンバーには通産省、経済企画庁などの官庁の次官クラス以上の人士だった。双方のメンバーはそれぞれ20人で、メンバーは固定し、毎年定期的に1度の年会を開き、非公開、対外的ではなく、閉鎖的な環境で中国の経済改革や中日経済協力などに深いレベルで政策の交渉を行った。円借款の実施、特区の設立、保税区の配置、中国の経済体制改革、産業構造の調整、及び産業開発区のテストなど、いずれもまず交流会で討論されたものだ。中日経済知識交流会は中国の改革・開放と中日経済協力に大きな貢献を果たした。

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