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日本に学べ トウ小平と中日経済交流
発信時間: 2008-11-06 | チャイナネット
四、「取経団」が訪日して改革・開放のために日本の経験を学ぶ

 1978年に鄧小平氏が訪日して中日友好条約の締結式に出席する前に、谷牧副総理と高級経済代表団を日本へ実地考察に派遣することを相談していた。1978年10月29日に鄧氏は訪日を終わらせ北京へ戻り、2日後の10月31日に、訪日経済考察団がすぐ訪日し、その素早さは尋常ではなかった。

 中国国家経済委員会と名づけられたこの訪日代表団は20人からなり、メンバーはそれぞれ重要なポストにある者だった。団長は袁宝華、顧問は鄧力群、副団長は葉林、徐良図、劉昆などで、メンバーには元国家主席・劉少奇の秘書である宋季文と高崗事件で不公平な待遇を受けた馬洪など、人材揃いだった。この代表団は専門に経済発展の経験を学びに日本を訪れたため、中国国内では「取経団」とも呼ばれた。代表団は翌年、米国を訪問して考察を行い、その後ヨーロッパも訪れて同様の考察、学習を行った。

 代表団は日本に1カ月滞在し、日本の代表的な各企業を訪問、また戦後日本の経済政策の制定に参加した重要な人物と深いレベルの話し合いを行った。彼らは都留重人、館竜一郎、下村治といった各氏を招き、理論から日本の戦後の経済発展の流れを紹介してもらった。また経済企画庁長官の宮崎勇、国土庁次官の下河辺淳といった官庁の経済学者を招いて、実際の操作面から戦後日本経済の運行及び産業政策の解釈を行ってもらった。

 代表団は日本で一定期間滞在して現場で研究する方法と講義とを結びつけた学習方法を採用。重要な代表的企業では少なくとも3~5日滞在し、企業経営層の講義を聞き、生産フローを見学、企業の管理経験を交流した。その真剣さは今日の一般人の理解の及ばぬものがあった。昼は講義を聞いて参観し、夜はノートを整理して、学んだことを総括した。こうした国民に献身する精神は非常に感服させられるものだ。

 日本には昼寝の習慣がなく、簡単な昼食の後、直ぐにスピードの速い業務を開始する。代表団メンバーは資料を整理するため、いつも夜更かしが続いた。またメンバーの多くは解放されたばかりで、文化大革命時の私設監獄や幹部学校(幹部・知識人を対象とした労働改造のための農場)から戻ったばかりで、昼寝をしなければ非常につらかったが、彼らは歯を食いしばって乗り越えた。ある時、宋季文氏はトイレに行き、便器に座ったまま眠ってしまい、トイレに来た人がいびきを聞いて彼を発見したことがあるという。

 戦後の日本の経済運営で、代表団が注目した2つのポイントがある。これが誘導型の経済政策と企業のグループ精神だ。戦後初期は一面の焦土で、人々の生活は苦しく、全てが復興を待つ状態だった。こうした状況下で日本は経済の「傾斜政策」をとり、財力と物力を集中し、国民経済の中心的な産業に対する優遇政策を実施し、国家が重点的に支援し、大きな効果を挙げた。誘導型経済政策は傾斜方針の産物である。終身雇用、年功序列などは企業のグループ精神の動力と経典となった。産業構造を見ると、日本はまず軽工業から着手し、国家の優遇政策は紡績業に置かれた。1946年末には紡績業が製造業に占める割合は23.9%、1950年には紡績品の輸出が総輸出の半分を占めるようになった。1953年に日本経済の回復期は終了、産業構造の新たな調整が始まり、軽工業の紡績工業から重化学工業へと戦略的な移転を実施した。1958年には重化学工業の産業構造が基本的に完成し、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、自動車、造船、鉄鋼業がリードする情況となった。1960年以降、日本は経済の高速な発展の時期に入り、造船や鉄鋼、テレビといった分野で世界市場に影響を与えるようになった。1971年から経済の多様化の時代が始まり、日本の産業は重く、大きく、厚く、鈍い重化学工業の構造から、軽く、小さく、薄く、巧みな電子産業構造へと移転した。日本の経済発展の流れはクリアで、重点が際立ち、貿易立国の戦略方針で企業の配置、企業の運営、企業戦略の転換を統率してきた。中国の改革・開放初期の、「両頭在外(原料品の調達先、加工品の販売先が共に海外にある)」、「出口在先(輸出優先)」というスローガンは、間違いなく日本の経験に由来するものだと私は考える。

 1978年12月5日、「取経団」は日本での考察を成功させて帰国した。彼らはすぐに、中国の改革・開放と企業改革の実施に重要な役割を果たす政策提案報告を作成した。報告では次のように記されている。「考察を通じ、代表団の全員は共通の感想を持った。中国が4つの現代化の実現を速める希望はあるが、大きな力を費やす必要がある。」日本は「1955年から1976年までに、国民総生産が4.8倍に増加、年平均で8.7%成長し、工業生産は8.4倍に増加、年平均で11.3%成長した…」。中国は日本に学ばなければならず、「思想面から大きな解放を行い…枠組みを取り払い、タブーを打ち破り…ソ連から持ち込んだ行政的な組織管理方法から、断固とし、徹底として、経済的な組織管理形式へと変化させる決心を下す必要がある」。「日本は先進的な生産技術と先進的な管理方法を、経済の高度成長の2つの車輪だと述べており、どちらも欠くことはできない。…彼らは管理、科学、技術を現代文明の3つの柱としている…この経験は、我々が学ぶに値するものだ。」

 この報告は谷牧副総理と鄧小平氏に届けられ、2人は会心の笑顔を浮かべた。こうして、中国の行政改革、体制改革、企業改革のスタートが切られたのである。

 時は流れ、改革・開放と中日平和友好条約の締結、実施から既に30年の年月が流れたが、まるで昨日のことのように感じられる。改革・開放において日本が中国に与えた支援を、中国人民は忘れることはない。

「人民網日本語版」より2008年11月6日

 

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