臨淄の稷下学宮――最も古い官営大学

臨淄の稷下学宮――最も古い官営大学。

タグ: 臨淄の稷下学宮

発信時間: 2011-09-02 15:03:38 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

古代の斉の国がその都臨淄に設立した稷下学宮は、当時、多くの機能をもち、歴史的に多くの意味があった。それは中国の最も早い大学でもあれば、戦国時代(前475-前221)の政治諮問と学術文化交流のセンターでもあり、同時にまた諸子百家争鳴(各流派の学者が競って自分の見解を発表すること)の最も重要な場所の1つであり、戦国時代の社会科学院と言えるものであった。

稷下学宮の遺跡は斉の国の城である小城の西部と南西部にある。戦国時代においては、中国の社会は大変革の中にあった。田氏の斉の国の三代目の君主斉桓公田午は当時、新たに生まれた政権を強固にする必要で、人材が欠乏する現実に直面していた。そこで、この君主は斉の国の賢人を敬い名士を愛する優れた伝統を受け継ぎ、都臨淄の稷門付近に高く聳える学宮を築造し、天下の大志を抱く人を広く招き寄せた。 そのため、稷下学宮はまずは政府のコンサルティング機関とシンクタンクになった。

稷下学宮には規模の大きな校舎があり、かなり正規な授業・学習活動をくり広げる教師と学生が数多くおり、比較的厳密な規則制度があり、また独特な教育方式――遊学があった。学生は自由に稷下学宮に来て師を求めて勉強することができた。先生は稷下学宮で学生を募集して授業することができ、つまり学びと教えという二つの面の自由があった。

秦(前221-前206)以後の思想、学術、文化はほとんど全部稷下学宮にそのルーツを求めることができる。稷下学宮の出現は中国の文化発展史上の一里塚であり、世界文化史上のさんぜんと輝くページでもあったと言える。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年9月2日

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