党家村は陝西省韓城市から東北へ約10キロのところ、ひょうたんの形をした谷にあって、沁水河が村を貫いて流れている。黄土の台状の地に立って下を眺めると、緑の木々の間にうっすらとした青レンガ瓦の家が並び、高くて大きな祖廟や鳥居、宝塔が点在しているのが見える。景色の秀麗な、非常に古色蒼然とした村だ。600年以上も前に建てられた四合院式の民居は140余りを数え、砦や風水路、鳥居、家廟、哨楼(見張り台)などの建築物が昔のままの姿で残っているほか、ほぼ完全な形をした族譜や村史もあるという。内外の専門家は、党家村は「東洋人の伝統的民居が残る村の活きた化石」と絶賛している。
党家村の門楼で最も特色に富むのが、明代の永楽年間(1403〜1424年)に始まって清代(1644〜1911年)に最盛期を迎えたレンガ彫りだ。村の人々はそれを習慣で「花門楼」と呼んでいて、黄土高原特有の芸術作品とでも言えるだろう。彫り物は門楼両側のレンガ壁上方にある湾曲した部分に嵌め込まれ、俗に「ガチョウの首」と言われている。その下にも柱状にレンガの彫り物が垂れ下がっている。彫刻された部分は方形になっていて、まるで額縁のようだ。画の内容は豊富多彩で、「吉祥如意」を寓意している。
門楼上端の中央にきめ細かな彫刻が施された扁額がある。額には多いもので「更読第」や「平為福」といった三文字、また「耕読」や「忠厚」などの二文字が刻まれている。この扁額を見れば、その家の主人の身分や地位、信仰が分かるという。例えば「平為福」は、「お金があって有名なのは決して本当の幸せではなく、一家が平穏で睦まじく心を通わすことが最も重要だ」とする主人の考え方が表されている。
村人は畑を耕したり、商いをしたりして生活は次第に豊かになり、巨万の富を築き上げた村民も少なくない。彼らはかなりのお金が貯まると、それを利用して、北京の四合院の様式に倣い、農村の生活や生産の必要性に合わせて、空間の配置や建築構造、装飾手法で創意工夫を凝らしながら住宅を建てていった。こうして徐々に都市と農村の民居の特色を合わせもった集落が形成されていった。
600年もの風雨にさらされながらも、党家村の民居が今日まで、そのレンガ造りの青灰色の瓦が昔のままの姿をとどめ、洗い清められたような風情を見せているのはどうしてなのだろう。専門家は「党家村は台状の地と水に囲まれ、狭く長い谷に位置している。南北に伸びる40メートルの台状の地が西北の季節風の襲来を和らげ、夏の涼風が谷に沿って吹き抜けていくので、冬暖かく夏涼しい理想的なところだ。北にある台状の地の赤粘土層、それに南の台状の地の粘土層では土が舞い上がることがなく、沁水河が流れているため、空気はすがすがしく、レンガ瓦は汚染されず風化しにくい」と説明する。
党家村は内外の専門家の関心も集めている。日本の古代民間建築の専門家、清水正夫氏は「かつて17の古代文明国で民間建築の調査に当たったことがあるが、党家村のような典型的な古代民居の村落は見たことがない」と話す。1987年以降、日本や米国、仏、シンガポール、香港などから数十人の専門家がこの地を調査に訪れていて、いずれも保存のよさに絶賛の声を上げている。
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