江南第一の大屋場(分家した一族が集まって暮らす集落)と呼ばれる張谷英大屋場は保存状態のよい古代建築群で、すでに500年以上の歴史をもつ。その建築規模の壮大さ、建築風格の独特さ、建築芸術としての優美さで全国でも珍しい建物だ。とくに中国の伝統文化と平民の意識が集約されていて、漢民族が一つの民族として集まり暮らす典型とも言えることから、人々の関心は高く重視されている。
張谷英大屋場は湖南省岳陽市から東へ約70キロ行ったところにある。張谷英はもともと江西省に住んでいて、宦官の出身。天文や地理に詳しく、風水にも長じていた。生活していた時代は災難が多く、生計を立てるため一家をあげて江西から一路、西へと向かい湖南にたどり着いた。周囲が山々に囲まれ、木々が生い茂り、清流が流れているのを目にして、住むのに適した楽土だと考え、ここに住宅を構えて落ち着くことにしたという。のちに子孫が繁栄し、分家が続いて今日のような大小の楼閣が軒を並べ、通路が縦横に走り、屋根の背と背が連なり、天窓が続く大屋場が形成されていった。張家の子孫は先祖の名をとってここを張谷英村と名づけた。
大屋場では母屋が主門になっていて、青山を背に、山の麓に半月のような形をして建物が並んでいる。門の前を流れる渭渓河は人々を守るまさに天然の防護河だ。楣(まぐさ・門の上に渡した横木)に大極図が描かれていた。天地一体、幸運と陰陽を表し、一族の平安を守り、富貴をもたらしてくれるという。門内の芝生に大きな池が左右に二つ並んでいた。それは竜の二つの目を寓意していて、防火用でもあり、また壮観でもある。渭渓河が屋場内を曲がりくねりながら、村を流れ過ぎていく。河沿いに長い回廊があった。青石が敷かれ、それに面して各家の入り口がある。各通路はつながっていて、その両脇に高さ10メートル余りの青レンガの壁が築かれている。高く厚い壁は防火に役立つことから「風火壁」と呼ばれる。大屋場にはこのような通路が縦横無尽に60本。見知らぬ者にとってはまさに迷路そのものだ。
通路の長短は様々で、最長で153メートル。すべての通路を合わせると、長さは1459メートルにも達する。通路の両側には家々が並び、軒と回廊がつながっていて、一つの建築物を思わせる。通路を歩いていけば、全村のどの家にも行くことができる。強い日差しを受けることもなく、雨や雪が降っても履物をぬらすことはない。
各家庭の部屋は「過庁」(通り抜けの広間)、客間、祖廟、「後庁」(奥の間)からなっていて、長さは約20メートル。この四室と両側の「廂房」(副室)、「耳房」(東西の小室)の間に3つの天窓が設けられている。天窓は四平方メートルほどと、それほど大きくはない。四つの部屋と廂房を使用する役割は明確だ。固定した祭祀を行う場所、客に会うところ、起居する部屋のほか、冠婚葬祭や集会を開く場所もある。現在、全村で658世帯、2169人が大屋場で暮らしている。従来の建築面積は5万4170平方メートルで、1484部屋だったが、この数年の間に新たに185世帯、1141部屋増えた。
張谷英大屋場は規模が壮大であるだけでなく、部屋の建築工芸も非常に微細で、装飾品のレンガ彫りや石刻、木彫は非常に精美だ。窓の格子はどれも堅木に彫刻が施されている。古くはなっているが、仔細に眺めると、花鳥の図案の線は非常に鮮明で、画面も生き生きしていて迫真力がある。数百年にわたり風雨にさらされてきても、それでも木板は反り返ったり裂けたりしていない。
大屋場で最大の天窓は約22平方メートルで、採光や通風にも利用できる。その下に花崗岩でつくった花壇があり、一角に下水道があって、雨水はそこから渭渓河に直接流れていく。
天窓を挟んだ左右両側の部屋は対称になっている。正面の客間はやや高く、普通10メートルほどある。なかは冬暖かく夏涼しい。その後ろは「偏房」と呼ばれ、牛舎や豚小屋として使ったり、薪や穀物、農具置き場にしたりしている。
張谷英村の人々は子々孫々、孔孟の教えを崇敬し、礼儀や教育を重視してきた。彼らは日の出とともに働き、日の入りとともに休む。人々は結束して仲睦まじく、しかも大一族だからといって近くに住む姓の異なる隣人を侮辱したり、圧力をかけたりすることはない。隣村の人々との関係は友好的で、互いに助け合い、そのため周囲の評判は頗るよい。
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