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国務院発展研究センター学者:倭人と倭人文化の謎
発信時間: 2008-10-30 | チャイナネット

「倭人」は雲南から川に沿って発展し、その文化を東アジアと東南アジアに伝えた。「倭人」の一部は、長江を下った。河姆渡遺跡(注5)で炭化した稲のモミや、高床式の住宅が発見されている。また一部の「倭人」は北上し、山東半島に到達し、ここで徐、淮、郯、莒、奄、莱などの小国を建てたと思われる。漢代にこれらの国々を「東夷」と呼んだのは、「倭人」によって建てられたからだと私は思う。

『史記』の「呉太伯の世家」(家の伝記)によると、周公の長男である太伯は、世継ぎ問題で呉に行き、そこで「断髪、文身(刺青)」し、国を建てた。「断髪、文身」は「倭人」の習慣であり、太伯に帰順した千余の家は、「倭人」であったに違いない。

『晋書』の「倭人伝」の中で、日本の「倭人」が自ら「太伯の後」と称しているのは、「倭人」が日本にまで到達していたことを示している。また『後漢書』の「三国志」に、「倭人」は「黥面文身」(顔と体に刺青)する、と記載されているのも、それを裏付けている。

出身地である江蘇省贛楡県の広場に建てられた徐福の像

「卵から生まれた」共通の伝説

『史記』の「殷本紀」の中に、殷の祖先に関する物語がこう記載されている。

「殷の契の母は簡狄といい、帝嚳の次妃であった。ある日、外出して川で浴していると、玄鳥が卵を落としていった。簡狄がこれを拾って呑むと、身ごもって契を生んだ」

この「契」こそ、殷の初代の王、湯王の始祖である。

同じような故事は、『史記』の「秦本紀」にも見える。

「秦の先祖は、帝顓頊の苗裔で、孫に女脩という者がおり、女脩は機を織っていた。玄鳥が卵を落としていったので、これを呑むと身ごもり、大業を生んだ」

顓頊は黄帝の孫であり、黄帝の名を借りたのは、自己の正統性を吹聴するためである。実は秦の血統と黄帝とは、なんら血縁関係はない。

面白いことに、徐国(注6)にも同様の卵の故事がある。『博物志』の「徐の偃王志」の中に、こういう記載がある。

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