1992年、私は江蘇省友好訪日団の一メンバーとして、日本の愛知県、大阪、京都、東京を訪問した。その時も日本の庶民のやさしさ、友好感情を体得したが、心のしこりは解けなかった。私は、日本人と礼儀正しくおつきあいできても、親近感を抱くことができない。私は政治家ではないから、自分を飾ることができないのである。善良かつ情熱的な永倉さんを前にして、その数日間、内心は矛盾していた。永倉さんを傷つけてはいけない、けれど嘘偽りの言葉は口に出ないのである。
その翌日、私は明るい元気な次女を連れていった。雰囲気を変えたかった。娘は可愛く、賢い、バレリーナのようだと褒めてくれた。それでも私の寡黙を感じたらしく、別れにさいし、お酒の勢いを借り、率直に口に出しただろう。永倉さんから怨まれたと私は感じ、怨まれる理由もある。「すみません、ふだんから無口なもので・・・」と釈明した。それは、その通りに違いない、けれど本当の理由ではないことを、私自身でも知っていた。永倉さんは、私の様子を見て、笑いながら言った。「そうですね。ムダな言葉はあなたの作品にもないことは知っていましたけれど・・・・・・。今日は、あなたの人柄と作品をより理解できるようになりました」。永倉さんの帰国後、数日間も、私の内心では、無辜の人を冷淡にすべきではなかったと、不安に思ったものである。
その後、永倉さんは、相変わらず情熱的に、私の小説を翻訳しつづけた。すでに『砕けた瓦』、『天下無賊』、『靴直しと市長』など十数篇、日本で翻訳・出版している。ここ十数年のあいだ、毎年の春節に、子どもたちへと、お菓子を送ってくる。一度ならず、私は送ってくださるな、子どもたちは大きくなったし、中国で何でも売っているからとお断りしたものだ。でも、永倉さんは相変わらず毎年送ってくる。女性らしいやり方で、親しみを込めて私と私の家庭生活に入ってきたのである。史上におきた、かの惨劇については、中国人の誰もが忘れ去ることができない。それは永遠の痛みである。平静に戻るには、時間を必要とする。両国人民の間の往来には、双方の真心と努力が必要である。
数年前、私は『逃亡兵曹子楽』と題する小説を書いた。生まれつき臆病者の曹子楽は、なが年、色々な軍隊の中でうろついてきたのは、食にありつくためで、戦いが始まるといつもスキを見て逃走する。八路軍の捕虜になり、訓話した長官が同じ郷里出身者と知ると、八路軍の兵士になった。いつも勇敢に日本兵と戦う八路軍。曹子楽も日本侵略者をとても憎んでいたので、敵を倒そうとするが、いざ戦場に出ると、こわくてこわくて、とても銃を前に出せない。何回も戦闘を経たが、一人の敵もつき倒せない。情けなくなり、これでは八路軍の顔をつぶすばかりと考え、逃亡しようとして、夜中に逃げ出した。夜道で一人の日本兵に出会い、いとも簡単に敵の銃剣を奪うことができたので、興奮してしまった。このチャンスに、自分は銃を日本兵に向けて一発で射殺したら、自分が侵略者を憎んでいることを証明できる。しかし、曹子楽の手はふるえ続け、引き金を引くことができない。なぜなら、許しを乞う目の前の日本人を殺すことは、戦場で日本人を殺すより難しいと感じたからである。曹子楽は、ついにその日本人を殺すことができず、兵営の近くまで連れてゆき、八路軍に投降させた。そうすれば、その人の命を守ることができると考えたからだった。自分はと言うと、やはり逃亡を続けた・・・・・・。
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