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私の日本の友人――永倉さん
発信時間: 2009-02-02 | チャイナネット

1990年代の中頃、日本から一通の手紙が届いた。日本に知人のない私は不審に思ったが、見知らぬ永倉百合子という日本女性からの手紙だった。

手紙には、自分たち夫婦はこれまで、中国広東のさる大学で、10年間日本語を教えていたこと、娘も広東生まれ、ある日、本屋めぐりして私の本を見つけ、いらい私の作品のファンになったことなどが述べられていた。帰国後は東京のある大学に勤め、余暇に私の作品をずっと翻訳してきたそうである。

手紙は懇切丁寧、謙虚な言葉で私の作品の翻訳権を得たい、さらに多くの作品を提供してほしいと書かれていた。私は多少意外に思ったが、同意の返事を書き、かつ作品を数冊送った。その時、私は翻訳が成功できるとは期待はしなかった。これまで翻訳を手がけたことがないけれど、試してみたいと、その手紙に書かれていたからだ。

永倉さんは真面目な方のようである。その後はたびたび手紙で翻訳のはかどり具合を知らせてきたり、また国際電話をかけてきて技術上の疑問点について私の意見を聞いたりした。そして、ある日突然、南京訪問してお会いしたい、色々と教えてほしいと申し出があった。永倉さんのこのほど一途で、謹厳な態度に、私はびっくりした。

まもなく、永倉さんは南京にこられた。私は三日間南京の名所見物、陽山の碑材参観にお伴した。南京古城の佇まいに、永倉さんは感嘆した。

お別れにさいし、私は小さなレストランで宴席を設け、お酒を飲み交わした。率直な永倉さんは、酒量は、私より強いようである。お別れのさい、永倉さんは言った。「趙先生、あなたは私の知る中国の男性の中で、一番の無口な人ですね」。それを聞いて私はトギマギした。確かに、この数日間、私は作品についての話、名所紹介以外に、話すことはなかった。

私は礼儀をつくしたが、情熱的ではなかった。心の中の理由は一つだけ、この方は日本人だからである!世の人の、誰もが知っている原因の外、私の住む都市で、かつては30万人もの人たちが中国侵略の日本軍に殺害されている。心理的にも、私は日本人と距離を置いてきた。それらのことは、永倉さんとかかわりはなく、一般の日本人とも、かかわりはないこと、十分知っていても・・・・・・。

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