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劉徳有会長、大平正芳氏と中日関係を語る
発信時間: 2009-10-26 | チャイナネット

「日台条約」の終了を明確に宣言

 

中日国交回復の共同声明の作成に当たっては、いろいろとやり取りがありましたが、中国側の主張する「政治三原則」の第一点については、「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府であることを承認する」とうたって、日本側は中国の主張を受け入れ、第二点の「台湾は中国の領土である」については、中日双方に受け入れられる併記の形が取られました。条文の文言はご承知のように、「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部あることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分に理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」となっておりますが、第三点の「日台条約の破棄」については、共同声明の中では触れられていないことに皆さますでにお気づきになられたことと思います。日本側は交渉の中で、中国側に対し、このことについてはいずれ必ず対外的に態度を表明するという姿勢を示されましたが、心配された周総理は幾度も日本側に態度表明を迫り、その上「言、必ず信あり、行い、必ず果たすべし」という論語の言葉を紙にしたためて日本側に渡したほどであります。果たせるかな、とでも申しましょうか。大平先生は交渉の中で周総理への約束通り、共同声明発表後の記者会見で、「日台条約」の終了を明確に宣言されたのであります。大平先生は次のように述べられました。「共同声明の中には触れられておりませんが、日中国交正常化の結果として、日華条約は、存続の意義を失い、終了したものと認められる、というのが日本政府の見解でございます」と。この時、私はかつて東京で大平先生に直接取材したとき「台湾問題はネゴシエーションを通じて解決できる」と言われたあの情景を思い出しておりました。中日国交回復の交渉を通じて、周恩来総理は大平正芳先生の人となりを非常に高く評価され、「大平氏は誠実で実直、無口で内向型だが、博学な方です。大平氏は誠心誠意、田中氏を補佐してきたが、まさに大平あっての田中であり、大平あっての中日国交回復だ」と周りの人に語ったほどであります。

 

中日国交回復後はじめての国慶節祝賀会に参加

 

中日国交回復後はじめての国慶節祝賀会が1972年10月2日ホテルニューオータニにおいて、東京のLT貿易事務所の主催で開かれたときのことです。会場には1500人もの客がお祝いに駆けつけ、空前の賑わいでした。後日、この祝賀会を主宰した肖向前氏は次のように回顧しています。

「この日やってきた客は、7月20日に藤山愛一郎先生がわたしと孫平化のために開いてくれた歓迎会とほとんど同じ顔ぶれであった。しかし、様子はまったく違っていた。あの時はまだ願望にすぎなかったが、今回はすでに成功をおさめていたのである。……かつて荊の道を切り開いた旧い友人たちも、黙々と“井戸を掘った人びと”も、すべて招待された。」

「祝賀会が始まる前、大平外相と社会党の成田知巳委員長がかけつけた。ふたりは四国の同郷の出身だが、一人は与党、ひとりは野党で日ごろ宴会で会うことも少ないが、このときは気楽に話をはじめた。成田委員長は、大平外相に言った。

“きみは日ごろから、あー、うーと言って、話し方がはっきりしないけれど、日中の国交が回復したとき、どうしてあんなにはっきりとしたものいいになったのかと、みんなが言っているよ”

大平外相は、そのことばを聞いてにやりと笑うだけで、答えなかった。」

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