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「お母さんがいなければ今の私はいない」ーー昔に思いをはせる中国残留孤児と黒竜江の養母 |
発信時間: 2009-11-11 | チャイナネット |
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「お母さんに会いたかった」 1972年に中日両国の政府が国交を回復した後、中国残留日本人孤児の日本での親族探しがスタートした。そして1988年11月28日に洪静茹さん一家4人も日本に帰る手続きを終えた。「家族はみんな娘の家に行き、座ったまま誰も話しませんでした。それは話し出すと泣いてしまうからです。数十年ですよ数十年・・・」。沙秀清さんは昔のことを思い出しては涙を流し、そばにいる洪静茹さんも同じように涙をこぼした。 洪静茹さんからが日本に行ってから、まるまる3カ月間、何の便りもなかった。沙秀清さんは非常に気を揉み、人に頼んで聞いてもらった。そしてやっとのことでハルビン市の友誼賓館で電話が通じた。娘の声を聞いた沙秀清さんは一言も言葉が出ず、涙がとめどなく流れた。洪静茹さんは電話の向こうですすり泣きながら「本当にお母さんに会いたい」と言い、少し感情が収まった洪静茹さんは、落ち着いたらまた電話すると母親を安心させた。 「あのころ電話をするのは大変でした。母は遠い場所にある他人の家に行って電話を受けなければならなかったのです。ですからそのあと5000人民元を出して電話を取り付けました」
親孝行な娘 日本での生活が落ち着くと、洪静茹さんは養父母にお金や物を送るようになった。「当時この辺りではまだ珍しかった冷蔵庫やカラーテレビ、ビデオまで買ってくれました、それに帰るたびにお金を渡してくれました」と洪静茹さんは言う。 今年になって沙秀清さんの末娘が入院した。そして大手術が必要だったが、末娘はリストラされ手術の費用はなかった。「静茹はそれを知り、手術を受け、お金のことは心配するなと言ってくれました。静茹は妹の命を助けたのです」と沙秀清さんが言うと、洪静茹さんは母親の手を握ってこう話した。「お母さんは私を育ててくれました。お母さんがいなければ今の私はいません。永遠にこの恩に報いることはできません」 「チャイナネット」 2009年11月11日 |
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