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「お母さんがいなければ今の私はいない」ーー昔に思いをはせる中国残留孤児と黒竜江の養母
発信時間: 2009-11-11 | チャイナネット

中国残留日本人孤児の訪中団が8日から上海、ハルビン、北京を訪問して、中国人養父母や兄弟たちと再会した。11日には温家宝総理がこの訪中団と会見することになっている。

中国残留日本人孤児の訪中団のメンバー

沙秀清さん(右)と養女の洪静茹さん

今年86歳になる沙秀清さんは、再び1945年の冬に戻ったとしても、従妹の仁義ある行為を幸いだと思うだろうという。1945年冬のある日、沙秀清さんの従妹は、弱々しい息遣いの日本人孤児を抱いて帰り、沙さん夫婦に育てるように引き渡した。「この子を引き取ったことは後悔していませんし、日本に帰らせたことも後悔していません。当時こちらの条件は悪く、日本に帰っていい生活をさせたいということだけを考えていました」

今回の「中国人民の養育の恩を感謝する訪問団」のメンバーの中には、沙秀清さんの養女もいた。この養母と養女は手がすくと手を取り合って話し、昔のことを思い出すと目には熱い涙があふれていた。

 

「私が生んだ娘」

牡丹江市寧安県に沙秀清さんが住んでいた1945年冬のある日、15歳の従妹が1歳ぐらいの女の子を抱いて戻って来た。そしてこの女の子は日本人だと言う。その当時、多くの日本人は広い部屋に一緒に集まり、この女の子の母親は亡くなる間際に従妹に娘を頼んだという。女の子を包んでいた布団の中には1枚の紙が入っていて、そこには1944年4月24日と女の子の誕生日が書かれていた。すでに結婚していた沙秀清さんはこの女の子を引き取り、長女として洪静茹と名づけた。

沙秀清さんは「静茹はとてもやせていて、ひどい栄養不良でした。私の家も貧しくて食べるものもない状態でしたが、義父はよく卵や牛乳を買ってきて、静茹のことを特別扱いしていました」と当時を振り返る。

1946年にハルビンに引っ越したあと沙秀清さんは3人の子供を生むが、彼女にとって洪静茹さんは自分が生んだ娘と同じだった。洪静茹さんが日本人の子供だということを知っている人はいなかったという。経済的に苦しかった洪静茹さんは中学2年で学校をやめ、道外区にあるハルビン第4百貨店で働くようになった。そして結婚し子供を生んだ。

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