1895年2月、清朝は正式に日本に講和を求め、日本側の指定した李鴻章を代表として送り込んだ。このとき、日本軍はすでに威海衛と遼東半島を占領しており、北京も極めて危うい情勢だった。
李鴻章と総理大臣伊藤博文、外相陸奥宗光は3月21日、下関で初会議を行った。談判期間中、李鴻章が北京とやり取りしていた電報の暗号は日本側に全て解読され、李鴻章の争点と清朝政府の譲歩ラインも相手側に知られていたため、会議の主導権はほぼ掌握されていた。
清朝政府は1895年4月、日本と屈辱の「下関条約」を結んだ。清国は国庫が空になると同時に、沿海の豊かな地域も失ってしまった。調印のニュースが中国に伝わると、国を挙げて憤慨が巻き起こった。大臣たちは西太后と光緒皇帝を非難することではなく、李鴻章の厳重な処罰を主張した。李鴻章は直隷総督と北洋大臣の職を奪われ、北京の賢良寺に身柄を移された。
「人民網日本語版」2009年12月7日