日本一の女スパイ①土肥原健二お気に入りの弟子

日本一の女スパイ①土肥原健二お気に入りの弟子。

タグ: 日本一 女スパイ 土肥原健二 弟子 南造雲子

発信時間: 2010-07-14 11:34:22 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

日本一の女スパイ②脱獄 

日本一の女スパイ③その命が散った瞬間 

日本一の女スパイという異名を持つ南造雲子とは、中国侵略を謀っていた日本が、中国に派遣したスパイである。中国人なら大抵、川島芳子を知っているはずだが、彼女が中国に与えた打撃は雲子がやったことに比べれば足元にも及ばない。

1937年8月、国民党政府はトップシークレットの計画を建てていた。その計画とは、江陰水域の航路を塞いで日本軍を足止めし、陸軍と海軍を動因して、日本軍の勢力を一挙に殲滅することであった。この計画の実行命令が下された後、国民党軍は国民総動員による国家総力戦体制に突入した。そして、ある日突然、長江の全ての日本艦艇・商船は全速力で黄浦江に向かって川を下り、港町で働いていた日本人たちもわけも分からないまま逃げ、ある家などは食べかけのご飯をテーブルに残し、扇風機さえもつけたままだった。日本は間一髪のところで難局を脱したのである。こうして、この抗日戦争初期の重要な軍事作戦は実行する暇もなく、失敗を告げられたのだった。蒋介石は部下である戴笠にことの真相を必ず明らかにするよう命じた。

そしてまもなく、容疑者として、早大卒で、当時、国民党行政院主任秘書を務めていた黄浚の名が挙がった。彼は激しい拷問の末、情報漏えいの一部始終を詳細に話した。情報漏えいにかかわった人は直ぐに全員捕らえられ、処刑された。彼らの中には、軍や政府関係者のほかに廖雅権という旅館の仲居がひとりいた。

土肥原健二お気に入りの弟子

この仲居の本名は南造雲子という。1909年上海生まれで、彼女の父南造次郎はベテランのスパイだ。

1929年、彼女は湯山温泉旅館で仲居をしていた。彼女はその美貌で時の考試院院長の戴季陶を釣り上げ、労せずして、多くの重要な軍事情報を手に入れたのだった。

しかし、程なくして、最高機密の軍事会議と重要な軍事書類は戴季陶とは縁遠くなり、雲子はターゲットを変えざるを得なくなった。それから、彼女はパーティーでとある男に近づき、親しくなった。この男こそ、当時、行政院主任秘書に昇進したばかりの黄浚である。南京政府の軍事・政治の重大機密は次々と雲子の手によって大量に日本へ流された。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年7月14日

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