日本一の女スパイ②脱獄

日本一の女スパイ②脱獄。

タグ: 日本一 女スパイ 脱獄 土肥原健二 弟子 南造雲子 蒋介石 

発信時間: 2010-07-14 11:36:50 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

日本一の女スパイ①土肥原健二お気に入りの弟子 

日本一の女スパイ③その命が散った瞬間 

スパイ事件解決後、蒋介石は黄浚父子を死刑にし、雲子は無期懲役に処され、南京老虎橋中央刑務所に入れられた。だが、その数カ月後に日本軍が南京に侵攻した。日本軍の脅迫と彼女の色仕掛けによって看守はたやすく降参し、混乱に乗じて、雲子は脱獄した。そして、彼女は依然として上海に身を隠し、スパイ活動を続けたのである。

しかし、全ての軍事幹部たちが「帝国の華」にたぶらかされた訳ではない。李忍涛という男は雲子の罠にはまることなく、逆に彼女を翻弄したのである。

李忍涛はアメリカヴァージニア州の軍学校を卒業後、ドイツに渡り、陸軍参謀大学で化学兵器を専門に学んだ経験を持ち、彼の努力と指導の元、国民党政府は中国初の化学兵器部隊の結成するまでになった。中華民国陸軍化学兵器部隊は表には「陸軍大学学兵大隊」と名乗り、李が大隊長と総教官を兼任していた。この部隊は日本にとっては目の上のたんこぶであり、雲子は李を誘惑し抱きこむという一大任務を受けたのである。彼女は策を講じて、李と知り合い、度々偶然を装っては彼のいる所に姿を現して近づいた。

しかし、雲子はまんまと裏をかかれたのである。李は偽の化学部隊の演習記録と軍の編制表などをいくつもでっちあげ、然もうっかり雲子に情報を流したかのように装った。偽情報には、「中国の化学部隊は既に4隊以上存在し、装備は全てドイツ製、教官も全員ドイツから呼んできている。」と書かれており、これは中国の化学兵隊の規模と実力を過大に誇張したものであった。この偽情報は直ぐに雲子から日本情報部へ伝えられた。中国侵略の初期と中期において、日本軍のほぼ全ての作戦マニュアルにおいて、中国の化学部隊の攻撃に対する防御策が盛り込まれているのはその為だ。1944年になってようやく、日本軍は罠に引っかかったのは雲子の方であることに気づいたのだった。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年7月14日

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