太平洋戦争勃発後、雲子は駐中日本軍の特務機関の「特一課」という部署で長官を務め、中国抗日勢力の破壊工作に従事していた。この間に、彼女によって殺された共産党員と抗日活動家は数知れず、上海における国民党政府軍の調査機関や情報機関の拠点もことごとく壊滅状態に追い込まれた。
1942年4月の在る夜、雲子はとあるイベントに参加するため、一人、車を運転し、フランス租界の霞飛路にある百楽門(パラマウントホール)に向かっていた。「軍統(国民政府军事委員会調査統計局の略称)」はいち早くこの情報を手に入れ、ホールの入口に人を待機させ、ずっと雲子を尾行していた。チャイナドレスを身にまとった雲子がちょうど駐車をし、ホールの入口に向かおうとしていたまさにそのとき、待ち伏せしていた「軍統」の3人のスパイは一斉に銃を取り出し、雲子に向かって続けざまに発砲した。雲子は病院に運ばれる途中で息尽き、33歳の若さでこの世を去った。
南造雲子は日本一の女スパイと言えるだろう。土肥原健二は彼女を自分の自慢の弟子であると言っている。雲子は川島芳子よりもずっと大切にされ、可愛がられていたのだ。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年7月14日