釣魚島沖で9月7日、中国の漁船が日本海上保安庁の巡視船に拿捕(だほ)され、船員が違法に拘留された事件をきっかけとして、中日両国間で懸案となっている釣魚島問題が再び全世界の関心を集めている。中国共産党の機関紙、人民日報の海外版が伝えた。
釣魚諸島は中国固有の領土である。早くは1561年、明朝の中国古代地図に釣魚島が中国福建省の海上防衛区域として記載されている。さらに清朝・康煕皇帝の冊封使として琉球王国を訪れた徐葆光の琉球録『中山伝言録』にも釣魚諸島に関する確かな記載があり、琉球王国の権威的な学者の見解として「琉球の姑米山(沖縄の久米島)は琉球王国の西南端にある主山、つまり国境線上にある主島」と説明されている。事実、釣魚島つまり日本側の言う尖閣諸島に関する記載で1868年の明治維新以前のものは見られない。
『日本外交文書』第18巻の記載によると、明治政府は1879年に琉球国を編入した後、釣魚島に領有権を示す標識(国標)を立てるため、1885年から3回にわたって秘密裏に調査を行った。そこから得られた結論は「『中山伝言録』に記載されている釣魚台(台湾・香港での呼称)、黄尾島、赤尾島などと同一の諸島に属する」ため、「清国との領有権交渉にかかわる」が、「現在の情勢とは合致しないように思われる」というものだった。ここから、釣魚島は占有された土地であると当時の日本政府がすでに認識していたことがうかがえる。ところが1894年7月に日清戦争を起こした日本は、下関条約の締結を間近に控えた1895年1月、勝利を確信すると、釣魚島に国標をひそかに設置した。そして同年4月、下関条約の締結により、台湾および付属諸島が日本に占領されることになった。
1945年の日本降伏以降、釣魚島は台湾に属する島としてカイロ宣言に基づき中国に返還されるべきであった。だが第2次大戦後、沖縄を領有した米国は1953年12月、いわゆるサンフランシスコ講和条約に基づき、経度線と緯度線による線引きで釣魚諸島を沖縄の一部として区画した。一方、中国政府は早くから、サンフランシスコ講和条約の違法性と無効性を主張していた。しかし1971年6月、日米間で沖縄返還協定が締結される際、沖縄の施政範囲が見直されることはなく、中国政府および国民から激しい非難が起こった。これを受け、米政府は同年10月、「施政権を日本に返還するが、主権にかかわる問題には全く抵触しない」「釣魚諸島をめぐる全ての紛争は当事者間で解決すべき事項とする」との見解を表明した。中日間の領有権問題で、米国はいまも中立の立場を貫いている。
1972年の中日国交正常化、1978年の平和友好条約締結を背景として、中日双方は両国関係の大局にかんがみ問題を棚上げする道を選んだ。
しかし日本は冷戦後、釣魚島問題における態度を一転、強硬な姿勢を示した。1996年8月、当時の池田行彦外相は「中国との間に領有権問題は存在しない」と述べ、釣魚島を日本固有の領土とする立場を強調した。21世紀に入り、米ブッシュ政権の発足後、アーミテージ副国務長官はイラク戦争などで日本の支持を獲得するため、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」との見解を表明した。米国のお墨付きを得たことで勢いづいた当時の小泉政権は、釣魚島への管理を本格化させていった。
今回の漁船衝突事件には以上のような歴史的背景がある。さらに特筆すべきは、日本で現在、今回の事件に乗じて「防衛計画の大綱」に釣魚島問題への対応を盛り込もうとする動きがみられることだ。こうした動きは両国の戦略的互恵関係をひどく損なうものである。両国に与えられたもう一つの選択肢は、戦略的互恵関係の枠組みの下、敏感な問題の解決策を模索することにより、戦略的相互信頼を築き、両国関係の障害を取り除きながら前進することである。(筆者 清華大学国際問題研究所 劉江永教授)
「人民網日本語版」2010年9月28日