釣魚島衝突事件が中日関係に暗い影を落としている。国民感情の悪化や感情論争が納まらない目下の状況は、北国の空のように寒々しく感じられる。
第二次世界大戦から既に60余年の歳月が過ぎ、現在、日本の20歳以上の若者達は戦後の第三世代にあたる。戦前と戦中そして戦後に生まれた第一世代と第二世代に比べると、考え方には質的な変化がある。彼らは何を考えているのか。中国との付き合い方をどう捉えているのか。歴史に対する認識はどうなのか。
近隣に住む者として、我々は日本の若者の生態を知れなければならない。そうしてこそ、正しく、冷静に、中日関係の将来を見ることができるのだ。(『国際先駆導報』より)
特殊な集団、中国の日本人留学生
「中日間では“友人”の定義が違う」と高木君
早稲田大学3年生の高木君は、今年9月から、北京大学で1年間の留学生活をスタートさせた。
北京に来て2カ月が経ち、高木君は教室や学生寮、学内や学外を含めて50人以上の中国人と知り合いになった。しかし、友人になれたのは僅か2、3人だけだ。「友人というのは一緒に遊んでいて楽しい人」というのが、友人に対する以前の高木君の定義だった。喜びは共にするが、苦しみも共にするとは限らない。高木君は、日本であろうと中国であろうと、そういう友人が当たり前だと考えていた。
しかし昨年、中国に短期留学した際に、彼の考え方が変わった。
資料写真
それは丁度、新中国成立60周年の建国記念の時期にあたり、高木君は中国人の友人と共に天安門に遊びに出掛けた。始めて見る天安門の美しさや人の多さに驚いて、写真を撮ったり、見物したりしているうちに、いつの間にか夜の11時を過ぎていた。
その日は交通規制が敷かれており、彼らは天安門に閉じ込められてしまった。「タクシーが全然捉まらない。でも、明日には飛行機で日本に帰らなければいけない」。高木君は少し焦っていたが、友人に助けを求めようとは思わなかった。「自分の問題は自分で解決する、他人に迷惑を掛けてはいけない」。幼い頃からずっと母親や教師達は、独立心や自立心を持つように、自分で責任をとるようにと、高木君に教え込んできた。
しかし、異国の地ではどうするのか。どう責任を負うというのか。
「行こう、タクシーが捉まるところまで少しブラブラ歩こうよ!」、中国人の友人は高木君を連れてさっさと歩き始めた。“ブラブラ”と言いながら、結局、王府井から後海まで歩いた。普通でも車で20分程の距離だが、何度も道に迷い、話しながら歩いていると、なんと4時間もかかった。
後海でやっとタクシーが捉まり、高木君は無事に学生寮に戻り、その日の飛行機に乗ることができた。
「日本人にはあんなことはできない。どんなに仲の良い友人でもきっと、『面倒くさいな、自分でどうにかしろよ。僕も忙しいんだよ』と言うだろう。僕自身もあんなことはできない。でも、中国では、友人のためならどんな大変なことでもするんだ」。高木君は中日間では友人の定義が異なると感じた。
勿論、中国人の友人との忘れ難い思い出といえば、全てが楽しいものばかりではなく、僅かながら複雑で苦い経験もあった。
「北京大学は安全だ」と山田君