革命ブームで帰国した多くの在日広東籍華僑
明治維新後、広東籍華僑たちは強国の道を学ぶため次々と日本へ渡った。彼らは日本の先進教育や新聞出版を通して人々の改革意識を呼び覚まし、国内革命に火をつけた。1911年の辛亥革命の際には、多くの広東籍華僑が次々に帰国、革命に参加した。そして、日本の中国侵略が進むにつれ、在日広東籍華僑も厳しい立場となり、祖国と同じ苦難を味わった。
黄埔村の日本楼は今でも完全な形で保存されている
日本から遠く離れた中国広州市に古くからある黄埔村には、歴史的逸話を持つ「日本楼」がある。それは、日中間の愛と憎しみを織り交ぜた歴史、そして広東人が長い歴史の中で演繹したあるエピソードの証明である。
軍刀から村人を救った日本人妻
黄埔村惇慵街8号に位置する「日本楼」は二階建ての小さな建物である。最も日本的な部分が、その大きな扉の横木に彫られた太陽の模様である。村人のほとんどが、この建物にまつわるエピソードを知っている。
1900年、黄埔村の村民、馮佐屏氏は留学のため古港から船に乗り日本へ渡り、ある日本人女性に出会った。二人は間もなく結婚。前世紀20年代、二世代となった馮家は中国へ帰国。妻の故郷を恋しく思う気持ちを少しでも和らげるため、馮氏はこの「日本楼」を建てた。
ある時、中国侵略を進めていた日本の一軍隊が黄埔村に入った。日本軍が一人の村人を手にかけようとしたまさにその瞬間、馮氏の妻が姿を現し、一本の刀を日本軍に見せた。日本軍はその刀を見たとたん、軍刀を下ろし、その刀に敬礼、すぐさま黄埔村から撤退。日本軍は、その後二度と黄埔村に姿を現すことはなかった。
軍刀にまつわる3つの説