河北省秦皇島生れ、吉林省育ちの袁鹿平さん(1911年生れ)は、「9・18事変」(日本では満州事変と呼ばれる)の際、吉林省第一工科学校で教員をしていた。今は瀋陽で暮らしている。
◇教員としての穏やかな生活、ある日を境に不穏に
あの激動の時代、袁鹿平さんの父母は幼い袁鹿平さんを抱え、吉林省に移り住んだ。聡かった袁鹿平さんは機械製造に興味を覚え、勉学に励んだ結果、20歳前には吉林省第一工科学校で機械製造の授業を受け持つ教員の職に就くことになった。
教師は薄給とはいえ、生活する分には事足りた。その後結婚した妻と校内の教員用宿舎に住み、平凡だが幸せな日々を送っていた。
だが、ある日突然その幸せな生活が奪われ、二度と取り戻すこともかなわぬようになるなど、年若い袁鹿平さんは考えたこともなかった。
初めの頃、なぜ突然日本人がこれほど増えたのだろう?という疑問が起こった。そして日本人達の奇妙な行動が、校内の中国人学生・教師らを不安に駆らせた。
そしてその不安は的中した。「9・18事変」のニュースが吉林にも新聞で伝えられ、袁鹿平さんのいる学校にも情報が入って来た。だが、袁鹿平さんを含む教師・学生のほとんどは、実際に事変の真相を把握していなかった。
◇日本人の「思想犯」とは
その後すぐに、日本語の課程が開設された。日本人男性2人が教えることになったのだが、この2人には、この学校の教師および生徒を監視するという特務が与えられていた。日本語の授業そのものよりも、そちらの方が大事だったに違いない。
校内で日本人らを見かけることはあったものの、袁鹿平さんは出来るだけ接触しないようにしていた。そのためか、いざこざは起きなかった。学校という神聖な場所では、日本人も牙を潜めていたのかもしれない。