よりまして、僕が感じる中国での「中程度記念度」のイベントの違和感というのは、「押し付けられたイベントの目的(僕の趣味にあう・あわないにかかわらず)」と「イベントの目的が人間交流だけにフォーカスされていない」ということでしょう。たとえば、僕はスケートをしませんが、中国の友人から「新年度の親睦のためにスケート交流をしましょう」とこの「中程度記念度」のイベントにおいて誘われてしまうと、困惑してしまいます。「親睦」と「スケートを楽しむこと」は目的が全く異なるからです。親睦は積極的にしたいけれども、スケートは取り立ててやりたくはないです。これが、もし「年末の記念だから、いつもより少しよいレストランで皆で交流しましょう」ということであれば、レストランというのは単に食事の場であってメイン目的ではないですし、また食物を摂取せずに生きることができる人間はいませんから(もちろん、美味しい料理であれば嬉しいことは間違い有りませんが)、このイベントは純粋に交流を楽しむものという評価になると思います。(いざとなれば、トークだけをしていて食事をとらなくても良いわけです。)
日本で例えれば、僕が「イベントの幹事」を担当しようと思った場合、いくら僕が個人的に「お抹茶・お茶をたてるのが好き」だからといって、皆で「新年会として茶道のイベントで交流しましょう」というお誘いはしないと思います。無難に「高層階からの展望が良い都内の某ホテルのレストランで食事をしながら交流をしましょう。」や「和庭園・景色の綺麗な割烹料亭で食事をしながら交流をしましょう。」といったことになるでしょうね。
中川幸司さんのブログ「情熱的な羅針盤」