日本の神仏共存信仰文化の秘密に迫る

日本の神仏共存信仰文化の秘密に迫る。 年末年始になると、日本人は大晦日にはお寺で除夜の鐘をついて新年を迎え、元旦には神社に初詣に行って、神前で手を打ち、一年の多幸を祈る。外国人から見れば、お寺は仏教であり、神社は神道、2つの信仰は全く別のものだが、なぜ日本人はどちらにも参拝するのだろうか…

タグ: 仏教,日本人,神仏共存

発信時間: 2012-01-07 09:54:40 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

年末年始になると、日本人は大晦日にはお寺で除夜の鐘をついて新年を迎え、元旦には神社に初詣に行って、神前で手を打ち、一年の多幸を祈る。 

外国人から見れば、お寺は仏教であり、神社は神道、2つの信仰は全く別のものだが、なぜ日本人はどちらにも参拝するのだろうか。これについて、日本仏教大学歴史学部の斉藤英喜教授は、日本は長い「神仏調和」の歴史を持ち、日本人は古くから神仏共存の意識を持ってきたと指摘する。 

欽明天皇の時代に仏教が朝鮮半島を経て日本へ伝来して以来、日本人は非常に積極的に仏教文化を受け入れてそれを広めていった。初めこそ神祇信仰との衝突もあったが、奈良時代になって二つの信仰はだんだんと混じり合い、融合していった。聖徳太子はさらに全国各地に寺院の建立を進め、これによって仏教は徐々に日本に普及していった。それに伴い、「本地垂迹説」や「護法善神説」などの「神仏調和」の思想が誕生した。 

「本地垂迹説」は、神は仏の化身であり、神仏はまさしく一体であるとし、仏教と神道の間には共通の領域があり、神道も仏教の体系に入るとしている。この説以降、仏教と神道は日本の宗教思想の総体となった。 

奈良時代から、日本各地に神社と寺院の性格を併せ持った神宮寺が建てられるようになった。たとえば、氣比神宮寺(福井県)、若狭神宮寺(福井県)、伊勢神宮寺(三重県)などがそれである。このほかにも神前での読経や納経なども盛んに行われた。 

江戸時代に入り、日本国内のキリスト教勢力を一掃するため、幕府は「寺請制度」を実施し、自身がキリスト教と何のかかわりもないことを証明するために寺請証文を得た民衆は、寺院の施主を引き受け、一定の義務を負わなければならなかった。これに至って、仏教は日本の隅々まで広まることとなった。 

明治元年(1868年)には、日本の維新政府が神仏分離令を発し、各地で廃仏毀釈運動が展開され、長きにわたる神仏調和の形態は崩壊を余儀なくされた。 

これに対し、斉藤教授は「日本の神仏調和は、長い歴史を経て形成された多彩な信仰世界ですが、神仏分離によって大きく破壊されてしまいました。現在の日本もまさに自然災害や経済危機などの多くの危機に直面しており、改めて神仏分離以前の信仰文化を見直すべき時が来ているのかもしれません。」と話していた。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年1月7日

 

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