1992年、方衛星さんは従姉の助けを借りて日本に来た。従姉の話では日本では給料が高くよい生活ができるというし、上海人の多くが日本に行きたがっていた。日本でのアルバイトの給料のよさは彼の想像を超えていたが、数られるほどの日本語しかできないため、この科学が発達した国では、まるで自分は知識階層ではないように感じた。
ある日、彼は街でゲームセンターをみつけた。その時彼はとてもうれしかったという。上海にもゲームセンターはあり、彼は大型ゲーム機を分解して修理することができるからだ。機械は日本語を話さないし、彼はこの技能で始めての仕事につくことができた。
そこはかなり大規模なゲームセンターで、毎日多くの日本人が遊びに来た。出勤の初日に、彼がびっくりと思い、日本人はまるで「お金をただの紙のように」財布から2万円を出し、100円硬貨に交換して2時間以内に使い終わる。毎日、地面に多くの100円の硬貨が拾えた。日本人はお金を落としても腰をかがめてまで拾いたくないらしい。彼は硬貨を見かけるとすぐ拾った。1日に拾う硬貨は中国での1カ月の給料より多かった。
1993年下半期になると、こうした情況は変わっていった。ゲームセンターに遊びに来る人は少なくなり、これまでにぎやかだった夜もひっそりしてきた。日本人の金の使い方もだんだんとけちになり、地面に落ちている100円硬貨もなくなった。周囲のスタッフが解雇されたことを見て、心の中にまた知識階層としての誇りが戻ってきた。彼は機械を修理できるため、会社での地位は安定していた。このように1996年まで仕えてきたこのゲームセンターは最終的に破産した。大型ゲーム機も歴史の舞台から消えた。彼の日本語は相変わらずうまくならなかった。正式的に学んだことがないからだ。ここ数年のハイテクも理解できず、彼はどうしたらよいか迷った。だが、彼はすぐに自分自身が生活して家族に送金するために、体力に頼って金を儲けようと納得した。食器を洗い、新聞を配り、金が稼げることはほとんど経験した。数年間で彼の収入はそこそこになった。
2000年以後、彼は正式な仕事を見つけた。中国人に電話カードを販売し、家電を転売するなどの仕事だ。簡単にいえば、金儲けできることなら何でもやった。彼は自分を知識階層だと思わなくなり、生活レベルも下がった。毎日仕事が終わると家へ帰る途中、彼は小さなゲームセンターによる。今も彼はこれらの場所をゲームセンターと呼んでいる。新しい店名は使わない。彼は「今、自分には社会地位も経済的な力もない。あの頃、ゲームセンターでのお金を拾っていた頃が懐かしい。あれが自分の人生の最高潮だった。」と語る。
もし時間を1992年の上海まで戻せてたとしても、彼はやはり日本に来る道を選ぶだろう。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年8月12日